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衛の家へ-バニシング・ポイント 26

衛の家へ

「ま、ここからなら俺のアパートの方が近いけどさ。そんなに辛いのなら、日を改めても良かったんだぞ。明日美も母さんの調子が悪いことくらい気付けよ」
衛には病気だった頃の博美の記憶が鮮明にあるので、今回も体調不良だと信じて疑わない。それならば博美はそういうことにして、冴子のところに乗り込み、衛がここまで太ってしまった事の責任を問い質さないことにはいられなくなっていた。
  それを知ってか知らずか、明日美は父親の今の住居には行かないといい、一人で自宅に帰って行った。なので、博美は衛と一緒に彼の住まいに足を向けた。
 衛は途中のコンビニでペットボトルのお茶を買い込んだ。冴子はお茶さえ沸かそうとはしないのか、彼らの生活にますます不信感が募っていく。
「ここだよ。あんまりきれいじゃないけど。とりあえず俺のベッドで横になれ」
ついた先は、衛の会社からはほど近いが、小さな安アパートといった風情のところだった。二人で暮らせないことはないだろうが、どう考えても女性が好みそうな外観ではない。そして、衛に導かれて中に入った博美は言葉を失った。そこには、スーツや普段着のスウェットを除けば、デスクトップのパソコンが一台とベッドしかなかったのだ。元から散らかす方ではなかったが、これはそれどころではなく、もの自体が存在していないといった方が正しい。
「ねぇ、ホントに彼女はどうしたの?」
「さっきから彼女彼女って言ってるけど、誰のことだ? さっぱりわからない」
思わず衛の服の裾を引っ張って尋ねた博美に、衛は首をひねりながらそう返す。
「彼女は、彼女。北村さんよ」
「冴子? 冴子がどうした」
「一緒に暮らしてるんじゃないの?」
博美がそう言うと、衛は吹き出した。
「あいつとは酒の上での出来心だ。最初から一緒になる気はないよ」
「ウソ!!」
「ウソじゃないよ。まぁ、そんな出来心の浮気だって、おまえには許せる話じゃなかっただろうから。それが分かっていたから、離婚に応じたんだ。だけど今更冴子の名前を聞くとは思わなかったよ」
「冴子さんは本気だったわ」
そう、あんな電話をかけてくるほどに。
「そうかもな。けど、俺にはその気はなかったよ」
そう言った衛は無表情だった。くしゃっと顔を歪めた博美の頭を衛は優しくたたくように撫でて、
「そんな顔するな。冴子も今じゃ、別の男の嫁だ。俺が責任取るより何倍も幸せになってるよ。それより、ホントに横になれ。落ち着いたら車で家まで送ってやるから。ほら」
と言いながら、ベッドに博美を押し倒す。博美の体が強ばった。
「警戒すんな、何にもしねぇよ。第一、今の俺は絶世の美女だって勃たない」
「ウソ!!」
「今日はお前、そればっかだな。ホントだって。ほらこれ」
衛はそう言いながら部屋の隅にある小さなプラスチックの抽斗から紙を取り出して博美に渡した。それは血液検査の用紙だった。そして、その用紙のアスタリスクがついている項目を見て博美は思わず息をのんだ。
 通常110までが正常範囲の血糖値が257。5.8%までが正常範囲のヘモグロビンA-1Cが倍の10.3%。具体的にどうおかしいのかは解らないが、放っておいて良い数値でないことだけはなんとなく解る。
「おい、何で泣いてんだ? ま、確かに誉められた数字じゃないけど、泣くことでもないだろ」
 離れて暮らしたこの15年は全くの無駄だったのだろうか。私はただ、衛が幸せになってほしい、それだけだったのに……
 衛が当惑する中、博美は血液検査の結果を握りしめて、ぼろぼろと涙を流し続けた。




注:ヘモグロビンA-1Cとは、長期スパンで見る血糖値のことです。空腹時血糖は検査日前の状態でかなり違ってくるので、こちらを重要視するお医者様が多いようです。








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バニシング・ポイント 25

「お、今日は珍しいな、母さんまで一緒か」
そう言って近づいてきた男は、よく見ると衛に似ているといえばそんな気もする。だが、年を重ねた事以上に違っているのは、博美が記憶している彼よりも横幅が2倍近くもあることだった。
「そうだよ、お母さんからも少し言ってよ。もう、一緒に歩けないよ」
「父さん、そんな妙なカッコウしてるか?」
「そうじゃなくて、そのお腹! 何とかしてよ!!」
「何とかしてよって言われてもなぁ、こればっかりは今すぐどうとかできるもんじゃないぞ」
そんな親子のやりとりを目を瞑って聞いていると、幾分くぐもってはいるものの、やはり衛の声に間違いない。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。そんなことを考えながら目を閉じたまま怪訝な顔をしていた博美に、「どうした、博美。気分でも悪いか?」
と、衛と思しき人物の心配げな声が聞こえる。
「ううん、別に」
「そうか、それなら良いけど。で、どこに行く?」
「うーん、やっぱ名駅。こっちよりアクセとかやっぱかわいいんだもん」
「博美は、それで良いのか?」
「お母さんはあたしの付き添いだよ。いいじゃん、あたしの行きたいところで」
「でも、折角久しぶりに会ったんだから、母さんの意見も聞いてだな」
「衛、良い訳ないじゃない!」
他愛のない親子の会話をしていた衛と明日美は、何の脈略もなくいきなり声を荒げた博美に、一旦互いの顔を見合わせ、それからきょとんとした面持ちで自身の元妻や母を見る。
「ねぇ、あの人は一体どうしてるの!」
「あの人って誰だ?」
「あの人はあの人よ!!」
博美の言うあの人とはもちろん冴子のことだ。しかし、衛はそれを意に介さないばかりか、
「おまえ本当に大丈夫か、震えてるぞ」
という始末だ。これが怒りに震えずにいられるだろうか。
「体調が悪いんだったら、もう今日は帰るか」
「えーっ、帰っちゃうの?バッグ買ってほしかったんだけどな」
博美の体調を心配する衛に、明日美は口をとがらせてそう返した。一緒に歩きたくないと言う割にはちゃっかりとおねだりしているところが今時の高校生というところだろうか。すると博美は何やら決心したように、
「帰る、ううん行くわ」
と言って頷いた。
「帰る? 行く? どっちなんだ、それ」
「だから、今から衛の家に行く」
博美の発言に首を傾げた衛に、彼女は思い詰めたようにそう答えた。

再会-バニシング・ポイント 24

 再会

衛と博美が離婚して10年あまり、明日美が中学に行くようになると、小学生までのように父親に会うのをあまり喜ばなくなった。毎月だった”デート”がほぼ隔月くらいになって、博美はその度に衛に電話で詫びを入れるようになった。
 とは言っても、博美は事務的に明日美が行かないことを伝えるだけだったし、衛も
「わかった、いつまでも親父が良い方がおかしいからな」
と言って電話を切るだけだ。
 それでもまだ、中学時代は文句を言いながら明日美は父親と会っていたのだが、高校には行った後すぐ、彼女はそれを全面拒否するようになった。
「じゃぁさ、お母さんも今のお父さんに会ってごらんよ、あたしの拒否る気持ち絶対に分かるからさ」
せっかくの衛の楽しみを取り上げるようになると、つい声を荒げた博美に明日美はそう言い返した。
 今の衛がどう変わったというのだろう。子供の反抗期だというのを抜きにしても、それは少し引っかかる発言だった。
 博美はそれこそ離婚後初めて、衛と会うことにした。実家付近でちらっと見かけたことはある。それも明日美が小学校4年の頃だ。
 待ち合わせはターミナル駅。最近では明日美はそのまま名古屋にまで足を延ばして、ちゃっかりとバッグや服などを買わせているらしい。
 衛はまだ来ていないようだ。どうせ会うというのに、それが少しでものばされるとホッとする。
 しかし、次の瞬間明日美は大きな声を上げて
「あ、お父さん、こっちこっち!!」
と声をかけた。
 その声に反応して、やってきたのはー

 博美の見知らぬ人だった。

本心-バニシング・ポイント23

 本心

離婚後、博美は名村家に戻った。博美は衛も生家に戻ってきて再々顔を合わせるのではないかと、内心ひやひやしていたのだが、衛は家族で住んでいた家を引き払って会社の近くに一人住まいを始めた。
 別に衛の顔をもう二度と見たくないというように愛想尽かしをしているわけではない。寧ろその逆だった。博美はたった一度の過ちを許せなかった訳ではなく、衛が新しい人生を冴子と歩めるように自分から手を離したのだ。
自分ではこれからも衛を男として満足させてやることはできない。送ってきたあの時、射るように自分を見、懸命に自分のものにしようとした彼女なら、きっと彼をもりたててくれるはずだ。きっとすぐに彼には次の子供たちが生まれるだろう。寂しいが私には明日美がいる。
 ただ、実家に住む事によって冴子とニアミスすることは嫌だった。どんな顔をして彼女に挨拶したらいいか判らない。
 だから、実家から離れて住んでくれたのは正直ありがたかった。
 そして、衛は明日美との“デート”の時だけ、衛の実家に連れていった明日美を迎えに来る。
 接点はただ、その月に一度の親子のふれあいの話を明日美の口から聞くだけ。それと、離婚後も明日美のためにと戻さなかった寺内の名字と……それは、本当は明日美のためではなかった。結婚後家にいた博美と保育所にさえ通っていない明日美には、名村に改称したところで何ら問題はなかったのだが、寺内という名を捨てたとたん、血のつながりのある明日美はともかく、自分はもう衛とのつながりは何もかも切れてしまう、それが博美には耐えられなかったのだ。
 離婚後、しばらくして博美は結婚前に勤めていた会社に復職した。衛からは、明日美の養育費だと二人実家で生活するには十分すぎる金額が送られてくる。博美にはそれが心苦しかった。できるなら衛の新しい家庭にそれを使ってほしい。突き返すためには親のすねをかじっている訳にはいかない。
 やがて、養育費の半額を送り返した博美に、衛から電話がかかってきた。
「これは、一体何のつもりだ!」
「私だって仕事始めたし、もうこんなに要らないから、自分たちのために使って」
「余計な気を遣うな!!」
そう言いかけると、衛は博美に最後まで言わせないままそう言って怒鳴った。
「だって……」
「ちゃんと自分の生活できる分は取ってその上で送ってるんだから、心配するな。残ったら貯めとけ。これから明日美の学校に、いくらかかるかわかんないだろっ。母親なら……」
と、今度は結婚していたときさながらに、夫風を吹かせて博美を責め始める。
「もう良いわよ! じゃぁ遠慮なくもらっとくわ」
せっかく衛のことを心配しているのに、母親失格のように言われたのではたまらない。博美はプリプリしながら自分から電話を切った。

theme : オリジナル小説
genre : 小説・文学

人の思いに勝る思い-バニシング・ポイント 22

人の思いに勝る思い

「でも、本気じゃないんだ。冴子に迫られてつい……」
続いて衛は必死で言い訳をしていたが、それは何の効果もなかった。その場で博美は明日美を連れて出ていき、翌日実家に迎えに行っても、信仰深い両親は浮気をした男を大事な娘と会わせようとはしなかった。
 それから果々しい話し合いもなく、程なくして離婚届けが送られてきた。衛は明日美の養育費を出す代わりに、一月に一度彼女と会うことだけを要求し、博美もそれに応じたので、寺内衛・博美夫妻の離婚が正式に成立した。
 そのことを事後報告で博美の電話で聞かされたとき、順子は落ち込んだ。
「きっと、私があんな事を言ったからだわ。牛とロバを同じくびきにつないじゃったのよ」
と、かつての日、衛に妹を頼むと言ったことを悔やんだ。
自分が衛に結婚など仄めかさなければ、衛は博美を意識してみることもなく、結婚には至らなかったに違いない。
 だが、それを聞いた信輔が怒りだした。
「そんなん、順子さんのせいちゃう。誘惑に負けたんは衛君や。子供の頃からの付き合いやねんから、博美ちゃんの性格を考えたらほんの浮気心が通用するはずないことくらいわかってるはずや」
そう言って、信輔はやにわに衛に電話をして意見し始めたが、途中から打って変わって聞く側に回ってしまい、横にいる順子には詳細がつかめない。
「そうか、君がそんでええっちゅうねんやったらしゃーないけど、ほんまにそれでええのんか?」
ただ、信輔が眉に皺を寄せたままなので、やはり復縁は難しいのだろう。
「ほんならな、この電話は衛君がそのまま持っていくんか? もし変わるんやったら、それも知らせてくれる? 
そしたら一番御心に叶うようにお祈りしてるわ」
信輔はそう言って電話を切った。
「衛君はどう言ってるの?」
「うん? 自分の責任やから離婚するて」
「そんな、ヒロたちには明日美ちゃんもいるのよ! 信輔先生が悔い改めに持っていって和解とかできないの!?」
「まぁ、順子さんの気持ちは解るけど、お互いの離婚の意志、固そうや。それに、『人の思いに勝る神の御思い』をかんじるんや、僕は」
「えっ?」
「僕たちにはまだそれがどんな恵みになって返ってくるかわからへんけど、博美ちゃんと衛君にはこれは必要なことなんや、僕は何かそう思う。中野先生もよう言うてはるやろ、『人生に偶然はありません。すべて神様のご計画の中にあるのです』ってさ」
確かにそれは恩師の十八番で、幼い頃から繰り返し聞かされたフレーズではあったが、妹夫婦の離婚がどう転がれば恵みに発展するのか見当もつかない。
「だから、僕たちは祈ろ。衛君たちの選択がどんなに先になっても大いなる恵みの実になって返ってくるように」
 この結果は大いに不満だが、それでも不満だという事も含めて自分たちには祈る以外に知恵も力もない。順子は信輔の祈りの言葉に合わせて手を組んで頭を垂れた。

過ち-バニシング・ポイント 21

過ち

「明日美!!」
衛はまず、うつ伏せになっている明日美を抱き起こした。涙と鼻水でぐちゃぐちゃではあるがすやすやと寝息をたてている。熱もないし、大泣きしたまま眠ってしまっただけのようだ。衛は明日美を抱いたまま今度は博美に近づいた。
「博美?」
だが、博美はそんな衛をまるで化け物でも見るかのように、瞳孔を広げて震えて後ずさりしたのである。衛は明日美を抱いていたので、明日美が何をしても泣きやまないので、精神的にくたびれてしまったのだろうと解釈した。
「ん? どうした?」
だが、そう言って衛が微笑みながら博美の頭を撫でようとすると博美は弾かれたように彼から飛び退いた。
「さ、触らないで!」
そして今度は強引に明日美を衛の手から取り上げると、その胸に抱いた。急に揺すぶられたことで目覚めた明日美が「ふぇ」
と軽く泣き声を上げる。
「明日美が起きるだろ」
衛が窘めると、博美は明日美をさらにきつく抱きしめて彼を睨んだ。
「ホントにどうしたってんだ。説明しろよ」
「私たちの事を……」
「俺たちのことがどうした?」
「今日、北村さんから電話がかかってきたの。私に衛と別れてほしいって」
「あのバカ、何言ってんだ!」
博美が昼間の電話のことを切り出すと、衛は舌打ちしてそう言った。
「バカじゃないわよ。それより、私と衛がセックスレスだってことを、何で北村さんが知ってるの!?」
「冴子、お前にそんなことまで言ったのか?」
「私たち夫婦のことをどうして他人のあの人が知ってるのよ! それに、冴子って何? あの人とどういう関係なの!?」
 衛は博美にまくし立てられて、しばらく反論しようと口をパクパクさせながら拳をプルプルと震わせていたが、やがて、意を決したように、唇をかみしめると、膝を折り、博美の前に土下座して、
「すまん、許してくれ! ちょっと魔が差した」
と、額を床に擦りつけたのだった。

theme : オリジナル小説
genre : 小説・文学

バニシング・ポイント 20

「それ、どういうことですか!?」
「それは、自分が一番お解りなんじゃないんですか。今のままじゃ、同居人と変わらないって」
「何でそれを……」
「彼の腕の中で聞いたと言ったら?」
震えながら聞いた博美に冴子は笑みを浮かべているのが判る口調でそう返した。
「衛の腕の中で?」
「そうよ。私があなたにヤキモチをやいたら『焼くな、博美とは子供が生まれてから一回もやってない』ってはっきり言ったわ。でも、妊娠中だってご無沙汰だったんでしょ? 健全な男がそれで保つと思ってるの?」
その後も冴子は少し話を続けたが、博美はもう何も耳には入ってこなかった。『健全な男がそれで保つと思ってるの?』という言葉が耳に纏わりついて離れなかったのだ。


―*―*―*―*

 その日、衛は帰宅したとき、自宅に灯りが点っていないことに気付いた。実家にでも行ったんだろうか……そう思っていると、近くに住む糟屋という年輩の女性が声をかけてきた。
「明日美ちゃん調子悪いの?」
「朝は元気だったんですけどね」
糟屋の質問に衛は首を傾げて答えた。
「夕方ものすごく泣いてたからもんだから。でも、子供なんてそんなもんよ。朝元気でも急にぐずりだしたと思ったら熱だって事多いから」
「そうですか。ありがとうございます」
そうか、明日美の調子が悪いのなら病院にでも連れて行ったのかもしれないな。そう思いながら玄関の鍵を開け、家の中に入って、部屋の電気を点けて一瞬にして血の気が引いた。

衛が見たもの―それは、明日美が部屋の隅でうつ伏せになっており、少し離れたところで、博美が真っ暗な中呆然と座り込んでいるというものだった。

theme : オリジナル小説
genre : 小説・文学

バニシング・ポイント 19

 夫婦のつながりは性行為だけではない、それは博美にも解っている。でも、衛が選んだのはなぜ自分なのだろう。もっと他に相応しい人がいるはずだと思ってしまう。
 そして、博美の口からは明日美のその日の様子以外の言葉はなくなった。衛も博美に無理には話しかけなくなっていった。帰宅時間は徐々に遅くなり、新婚時代には決してしなかった休日出勤もするようになり、博美は明日美と二人きりで過ごすことが多くなった。

「ほら、テラさん、家に着きましたよ」
忘年会の日、衛は俊樹ともう一人北村冴子という女性に支えられて帰宅した。
「すいません、わざわざありがとうございます」
「いえいえ、テラさんにはいつもお世話になってるっすから」
そう返す俊樹の呂律も些かあやしい状態だ。
「堀木さん、大丈夫ですか?」
博美が心配してそう尋ねると、
「俺? 俺は大丈夫っすよ」
俊樹は博美の言葉に敬礼して答えた。一方冴子は
「私がこれから送りますから。では寺内さん、失礼します」
と、衛ににこやかにほほえんだ後、ちらりと博美を見た。衛に向けた視線とは対照的な刺すようなもので、その視線に博美はうっすらと寒気すら感じた。
 
 それから寺内家に、博美がとると無言で切れてしまう電話がかかってくるようになった。衛が家にいるときにはかかってこないので、博美が怯えているのが衛には今ひとつ分からない。
「俺がいる時にかかってきたら、間髪入れずがつんと言ってやるから」
と言って笑ってやることしかできない。

 そんなある休日、衛たちは近くのショッピングモールに買い物に出かけた。久しぶりの買い出で心なしかいつもより会話も弾む。
 しかし、そんな衛の表情がある一点を見て固まった。衛は、
「なぁ、ちょっと用ができたから、そこの〇×ドーナツで待っててくれるか。すぐ戻ってくる」
と言うと博美の返事も聞かずにはしっていった。博美は追いかけたい衝動に駆られたが、明日美のベビーカーを押していてはそうもいかず、仕方なくドーナツ屋に向かった。程なくして衛も合流したが、何か落ち着かず、心ここにあらずだった。

 そして、それから三日経った日の午後、衛のいない寺内家の電話が鳴った。
「はい、寺内です」
「奥様ですか」
「どちら様でしょうか」
何か宣伝の類だろう、そう思いながら博美は相手の名前を聞いた。
「私、北村冴子と申します」
「ああ、主人の会社の? 主人はまだ会社ですけど」
今日は普通に朝出勤して行ったのだ。博美は首を傾げながらそう答えた。
「今日は奥様にお電話いたしました」
「私に? 何かご用でしょうか」
ますます訳が分からなくなっている博美に、冴子はいきなりこう切り出した。
「奥様、ご主人と……衛さんと別れていただけませんか?」
と……

 

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genre : 小説・文学

愛しているからこそ-バニシング・ポイント18

 愛しているからこそ

子供は博美自身が体調に気を配ったこともあったが、さしたることもなく出産を迎えた。
 ただ、全く順調な訳でもなかった。博美の血圧は陣痛を迎えてからいきなりあがり始め、出産直前には167になった。そして、帝王切開も視野に入れようとした矢先、ほどなく博美は女の子ー明日美を産んだ。
「とにかく無事に生まれて良かった。けれど、出産直前の血圧の急激な上昇。これは、明らかに妊娠中毒症の兆候だよ。妊娠中毒症は、第一子より第二子、第三子と、出産を経るほど重くなる傾向があるから、いいね」
鹿島は、博美にそう言って今一度念を押した。

 そして、明日美が生まれて一年近くの日が経とうとしていた。博美は出産後から未だ衛の夜の誘いを断り続けている。
 衛には明日美に手がかかるからそんな気にはなれないと言っているが、彼女の本心は別のところにあった。
 博美は出産後、重度の妊娠中毒症のもたらす弊害を調べた。出産した直後、けろっとしてしまう場合も多いが、中には重篤な症状に陥って、植物状態や死に至るケースもある。
 特に、最初に妊娠中毒症に罹った場合、その子供を出産後間を置かないで次の子を妊娠すると、重症化する場合が多いという。
 もちろん、出産直前の血圧上昇は衛も知っていて、既に鹿島は衛にも釘を刺していたから、夫は避妊具を用意して待っていることも知っている。鹿島に頼めば経口避妊薬も処方してくれるだろう。
 だが、そうして万全を期して夫婦生活が、『快楽だけの性』のような気がして受け入れられないのだ。『夫婦のコミュニケーション』として重要なのかもしれないが、肉の欲に駆られているような気がする。『生めよ増えよ地に満ちよ』の聖書の言葉に逆らっているように思える。最後までいかず外に出してしまったために、神様の罰を受ける者がいた架所を思い出す。
 そして、そのことを薄々感づいているのかもしれない衛が自分に対して、
「いいよ、別にエッチがしたくて博美と結婚した訳じゃねぇから」
とささやく言葉も、博美の心をチクチクと刺し続けたのだった。


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