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赤ちゃんパニック 1

「じゃぁ、幸太郎君頼むね。ホント感謝してるよ」
俺は、電話口で拝み倒しているのが判るような口調のタケちゃん(対外的には社長という)との電話を終えてため息をついた。
 タケちゃんは今抱えている原稿を落としそうになってて、編集者の野郎にカンヅメにされているらしく、身動きがとれないらしい。てな訳で、新製品のライセンス交渉をいきなり俺と宮本の二人でしてくれと言うのだ。そりゃ、市原健と言ゃぁ今や押しも押されもせぬ流行作家様だけどさ、言っとくけどこっちが本業だぜ、編集者さんよ!
 こんな時、本来なら俺らなんかが出なくてもタケちゃんの父親である会長が応対すりゃぁ済むんだが、あいにく会長は奥さんの実家リヒテンシュタインに旅行中。帰国するのは一ヶ月先だと。まったく、あの親子は揃いも揃ってどうやって会社から逃げ出そうかと算段してやがるんだからな。
 交渉相手の中司彰教(なかつかさあきのり)と言う男は29歳、その会社の社長の息子で次期社長だという、俺たちは姻戚関係だけど、なんか似たような立ち位置の奴だ。
 ただ、かなりのイケメンなのにもかかわらず、大の女嫌いだという。タケちゃんが、
『お茶も美久君が運ぶように頼んであるから』って言うんだから相当だ。
 ま、交渉自体には何の支障もないだろうけどと思いつつ応接室に向かう。すると、中からものすごい怒号が聞こえてきた。応接室は元々、音が漏れにくい構造になっているはずだから、それを超える声ってばどんだけ怒鳴ってるかって話だ。俺は慌てて、
「宮本、お前いきなり客を怒らせてどーする!」
と、言いつつ応接室に飛び込んだが、一歩遅かった。
宮本は、真っ赤な顔でプルプルと小刻みにふるえながら、
「あなたみたいな分からず屋は、もう一度赤ん坊から教育し直したらいいんです」
と言って両手を緩く開いて胸の前に出し、
<汝その命の歩みを遡らせよ、Reverse>
と、中司氏に何かの魔法を詠唱しちまったのだ。
 そして、その次の瞬間俺が見たものは、大魔法を使って伸びちまった宮本と、中司氏のスーツにくるまってきょとんとしている一歳にも満たないだろう赤ん坊だった。

 

 
 
 
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theme : 自作小説(ファンタジー)
genre : 小説・文学

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赤ちゃんパニック 2

 のびた宮本と、消えた中司氏の代わりに忽然と現れた赤ん坊。そのあり得ない状況に、俺は宮本がまた何らかの魔法を発動させて、中司氏を乳飲み子に替えてしまったと理解する。
 だが、こんな飛んでもない発想をすんなりとしてしまえるのは、俺が実際にパラレルワールドに潜り込むという経験をしているからだ。イタいなんて言わねぇでくれよ、俺だって実のとこ信じたくねぇんだ。けど、実際に俺やら宮本やら薫のドッペルと会っちまったから否定しようがねぇだけ。
 宮本は俺が、
「おい、こら、起きろ!!」
と叫びながら叩こうが揺すろうが目を覚まさない。その様子に、こいつの使った魔法がいかに強力だったかが分かる。よく考えたらあれからほぼ一年だぞ、お前どんだけ記憶力良いんだよっ。
 その内その声にきょとんとしていた、中司(ガキ)の唇が少しずつへの字に変わっていく。
「ふぇっ」
や、やべぇ、泣かれる! そう思った俺はとっさに中司(ガキ)をスーツに包んだまま抱き上げ、
「よしよし、良い子だ。泣くなよ。男だろ?」
と揺すぶってあやした。中司(ガキ)は俺のその言葉にぐっと涙を飲み込むと、めちゃくちゃ澄んだ瞳で俺を見上げるその顔はまるで、
「ボク頑張る、でもお兄ちゃん誰?」
と言ってるかのようだ。か、かわいいじゃねぇか。反則技だぞ、お前。
 けど、よくよく考えてみれば、こいつ実年齢俺より上なんだよな。じゃぁ、詐欺だろ、この顔は。

 さて、この事態をどう打開するか。宮本が使い物にならない以上、あいつにこっちに来させるしかねぇか。
【おい、ビクトール。どうせ今でも俺らのこと魔法で覗いてんだろ。緊急事態だ、とっととこっちに来い!】
俺は、なんてことない会議室のホワイトボードに向かってそう叫んだ。
 するとしばらくして、ホワイトボードの真ん中に黒い渦が生まれ、そこに宮本のドッペルゲンガー、ビクトール・スルタン・セルディオの幻影が現れた。 
【お前、手抜いてんじゃねぇ、早くこっち来いよ】
「簡単に言わないでください。界渡りはおいそれとはできない大魔法なんですよ。今日みたいに体調の悪い日は勘弁していただきたいです」
俺の言葉にビクトールは迷惑そうに鼻をすする。風邪ひいてんのか。『鬼の霍乱』ってやつだな。
【んなこと言ったって、こっちは切羽詰まってんだよ。宮本が魔法を使えるようになったってのも、お前が自分と入れ替えてオラトリオに飛ばしたからだかんな。元はと言えばおまえのせいだろ】
「そりゃ、あなたと美久をオラトリオに飛ばしたのは私ですが、そうでなければあなた方も死んでいたかもしれないんですよ。お互い様じゃないですか」
【フツー、それが運命ってやつ……あん? お前反対じゃん】
そんな風に奴と不毛な言い合いをしていたが、そのとき俺はあることに気づいた。俺があっちに合わせて英語で話しかけるのに対して、あいつが日本語で俺に応えていることに。
「お前、日本語!?」
「ええ、少しは」
少しはってレベルか、それが! あの宮本のドッペルだ、基本言語能力が高いのは認めるが、完璧ネイティブの発音じゃねぇか。おかげでしばらく日本語でしゃべってんのに気づかなかったじゃんかよ。ま、エリーサがしこたま頑張ってもちっとも発音できなかった美久の発音を一発目から完璧にこなしていた時点で気づくべきだったか。
「何が、『界渡りは難しい』だ。どんだけこっちに来てるんだよっ、ごちゃごちゃ御託並べてねぇで、来いってんだ!!」
 日本語は英語圏の奴らにとったら、文法真逆の一番難しい言語だぞ。俺がそう言うと、ビクトールは、
「しょうがないですねぇ、じゃぁ行きますよ。行けばいいんですね」
と渋々逆ギレしながら瞑想を始め、ホワイトボードからにゅわーっと姿を現した。その姿はさながらホラー映画だ。
「やりゃ、できるんじゃねぇか」
と言った俺に、
「誰もできないとは言ってませんよ」
と肩で息をしながらビクトールはそう返した。おまえ、何気に負けず嫌いなんじゃね?
「で、この方が問題の方ですか」
それからビクトールは息を整えながらそう言って、中司(ガキ)の顔をのぞき込んだ。中司(ガキ)はビクトールの顔を見た途端、危険を察知したかのようにぴくっと体をふるわせると、一気に唇を歪ませ本格的に泣き出した。そう言ゃ、こいつがガキになる前宮本にどなってたんだっけな。怒ってた奴と同じ顔の奴がいたらそら嫌だわな。
「だぁーっ、お前顔出すんじゃねぇ! ああ、よしよし。嫌いなおじちゃんがいましたね、気にしなくていいんでちゅよ」
んで、俺がそう言いながらあやしても、揺すくっても全く効果なし。中司(ガキ)は激しく泣き続ける。おいおい、そんなに泣くな、外に声が漏れるじゃねぇか。
 俺が来いって言ったんだけどよ、あぁ゛ーっ、どうしたらいいんだよ、コレ!!


 
 
 

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赤ちゃんパニック 3

 泣き声が外に漏れる! と戦々恐々としている俺に、中司(ガキ)は俺がわざわざビクトールが見えないように立ち位置を変えているにも関わらず、きょろきょろと覗き込んでまで奴の存在を確認して泣き続ける。そんなに嫌な相手なら、見なきゃ良いんだろーが。俺は思わず中司(ガキ)の口を押さえてしまった。すると、ビクトールは、
「赤ちゃんはか弱いんです。そんなことをしたら簡単に死んでしまいますよ」
と俺の手を払いのけ、その声にまたぴくっとした中司(ガキ)の前で指をパチンとならした。すると、中司(ガキ)はぱふっという擬音が聞こえるような欠伸をすると、目に涙をためたまますんなり寝入ってしまった。どーせまた、そのお得意の魔法で眠らせたんだろう。
「相変わらず便利なことで」
「お褒めに与(あずか)り光栄です」
そして俺の皮肉を真っ向から受け止めやがる。相変わらず嫌味な奴だ。
「けどどうせなら一気にこいつを元の大人サイズに戻してくれりゃ良いだろ」
「それは無理ですよ」
「何でだ」
「難易度が違いすぎます。それに魔法は、基本術をかけた本人が解くものです。美久の魔法に私の魔法を上掛けする形と言えばお解りいただけますか? ですから、術者本人が死亡しているなどの特別な場合を除いて、それはできないことになっているのです」
「そんなもん、オラトリオの法則だろうが。それに、その論法でいけば術者は死んではいねぇけど『戦闘不能』じゃん。条件的には問題ねぇんじゃね?」
「私がいつも通りの体調ならばまだしも(ゲホン、ゲホン)そうじゃなくても、今はできるだけミシェルのために余力を残しておきたいんで(ズルズル)」
俺の言葉に、ビクトールは体調不良を殊更にアピールしながらそう返す。けど、ミシェルって言えば社長のミドルネームだよな、何で社長の? そっか、こいつは宮本のドッペルだ。こいつも社長に見初められてガッシュタルト王家にこき使われてるって訳か。あっちでは俺は他国の王子だしな、孤軍奮闘してるってか。
「ああ、ああ、わぁったわぁった、そんな体調の悪いときにわざわざ呼び出して悪かったよ」
「とんでもない、考えてみたら私にも幾分非のあるはなしですから。とりあえず、美久の魔力が一刻も早く回復するようにこれを持ってきたんです」
案の定、俺が下手に出ると、ビクトールはケロっとしてそう言うと、しわくちゃの実らしき物を取り出した。
「これは?」
「ガザの実です。実の生る時期に取りおいて乾燥しておいたんです。生よりは効果は薄れるかもしれませんが、緊急時にはそれでも役に立ちます」
あの魔力回復アイテムか。にしても、時期外れにご丁寧にドライフルーツかよ。誰のためにだ。こいつの魔力が枯渇するなんて想像できねぇから、あの跳ねっ返りの姫さんのためにか。それともいつかこんな風に宮本が大魔法を繰り出してぶっ倒れることを予想してやがったか。
「じゃぁ、ちゃっちゃと宮本起こして食わせちまおうぜ」
「はい、でもその前に、この方に何か服を着せて差し上げないと、風邪を引いてしまいます。それに、そんなごわごわした生地ではきれいな肌もかぶれてしまいますし」
「ごちゃごちゃうるせぇなぁ、んなこと言うならお前がちゃっちゃとこいつを元に戻せば良いんだろーが」
「それができれば、こんなことは申しませんよ」
イライラと言う俺に、ビクトールはため息をつきながらそう返した。それにしてもこいつ、中司(ガキ)を元に戻せないと、あっさり認めやがった、認めやがったぞ。
 けど、赤ん坊になったとは言え、中司(ガキ)は大事なお客様だ。こっちの事情で風邪を引かせたとあってはシャレになんねぇ。
 とは言うものの、俺がここを離れるわけにもいかねぇだろうし、どうしたものか……
 しゃーねぇ、ここはもう一人のそっくりさんがいる奴を呼ぶか――おれは覚悟を決めて薫の内線を押した。
 
 
 

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赤ちゃんパニック 4

「おぉ、薫。なぁ、今仕事大丈夫か?」
『うん、まだ月末じゃないしね、大丈夫だよ』
それに前よりみんな動いてくれるしね、と薫は言った。そりゃそうだろ、会長の孫で未来の社長夫人(とは言え、仕事を辞めたくないと言い張りやがって、まだ結婚はしてないんだけどな)を率先して顎で使える奴がいたら見てみたい。
「じゃぁ、お前体調悪いとかなんとか理由付けて早退して応接室に来い、頼みたいことがある」
暇だと聞いてそう言った俺に、薫は当然? 不満の声を上げた。
『ええーっ、理由は?』
「理由は……言えない」
宮本が魔法使って、クライアントを赤ん坊にしてしまった? んなこと、電話なんかで簡単に説明できるかよ。
「緊急事態なんだ。頼む」
それに対して俺は、いつになく低姿勢で頼んだが、
『今じゃなきゃダメなの?』
と、薫からは心底ウザそうな返事が返ってくる。それを聞いて、
「ぐだぐだ言ってないで早く来いよ!」
とつい怒鳴ってしまった俺に、
『横暴男!』
と言葉を買い取って薫は乱暴に着信を閉じた。あちゃー、やっちまった。あいつ来なかったらどうしよう。俺の背中に冷や汗が流れる。ふと横を見ると、ビクトールがそれを見てニヤニヤ笑ってやがった。
「何がおかしい!」
「いえ、別に」
イラつく俺に、ビクトールは心底おもしろそうにそう返す。ったく、こいつなんでこんなに嫌味なんだ。ああもう、ムカつくっったらありゃしねぇ!!
 俺がイライラと中司(ガキ)を抱きながら応接室を歩くこと15分、ノックの音がした。俺はすかさず扉に背を向けて、
「薫か?」
と聞く。薫だったらいいけど、他の奴の可能性もあるからだ。すると、
「うん、私。一体なにがあったの。一応気分が悪いからって言ってきたけど」
と言いながら、薫が入ってきた。
「まず、ドアを閉めろ」
「閉めたわよ、ちゃんと」
俺はその言葉を聞いて徐に薫の方を向いて、
「そうか。で、こいつがお前に来てもらった理由だ」
と、薫に中司(ガキ)を見せた。薫は目を丸くして一瞬フリーズした後、満面の笑みで、
「かわいい~」
と、言いながら包んでいるスーツごと中司(ガキ)を抱き上げて頬ずりした。
 薫はその後、
「ねぇ、宮本君ちょっと代わりに抱いててくれる?」
と言い、
「あ、いえ、私は……はい」
ビクトールは、すぐ横の床にぶっ倒れている宮本本人を横目で見ながら、自分が宮本ではないとなぜか言い切れずに、中司(ガキ)を薫から受け取った。
 そして、薫は俺をキッと睨むと、
「この浮気もの! もう、婚約解消する!!」
と言いながら、俺をグーで思いっきり殴りやがったのだった。
 
 
 
 

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赤ちゃんパニック 5

「痛ってぇ! 何しやがんだよ!!」
「乙女の気持ちを踏みにじったのよ。当然でしょ」
「誤解だっ。コレには込み入った事情があってだな」
「誤解ですって!? 確たる証拠を前に何が誤解よ」
真相を説明しようとしている俺のことを聞く耳を持たず薫は、足を肩幅に開いて俺をにらみつける。
「何が確たる証拠だ」
その薫を俺もまた睨み返す。俺は悪くねぇんだ、ここで怯んでたまるかよ。
「応接室に鮎川のスーツに包まった赤ちゃん。こんなのどう考えたって、あんたがどっかのおねーさんを喰っちゃった結果でしょ」
「違げぇよ。大体、コレ俺のスーツじゃねぇ」
薫の剣幕に、俺はそう言って部屋の隅にかけてある俺のスーツを指さした。
「じゃぁ、宮本君の? そんな訳ないわよね」
すると、今度はその怒り狂った顔を驚きに変えてビクトールを見る。そして、
「あれ、宮本君なんでそんな変な格好してる訳」
と、ビクトールの出で立ちをみて首を傾げた。おい、随分俺とリアクション違うじゃねぇか。おまえの年下の叔母の婚約者の宮本は、条件的には俺と同じだろうが。その婚約者がまだガキの分だけ、鬼畜度増しだと思うけどな。まぁいいや、ホントにどっちのガキでもないから。
「あ、私は美久ではありません。美久の映し身、ビクトール・スルタン・セルディオと申します。ちなみに本物の美久はそこに」
それに対して、ビクトールはそういって、ぶっ倒れている宮本を指さした。
「ええっ、宮本君って双子だったの?」
ま、普通そっくりさんがいたらそう思うわな。それに対して、俺は首を横に振って説明を始めた。
「いや、こいつは宮本のドッペルだ。実はさ、一年前の事故の時、俺たちは本当は事故ってなかったんだよ。大怪我して死にかけてた俺と宮本のドッペル-こいつだけどよ、と入れ替わって、オラトリオっていうパラレルワールドにいた。
宮本、あっちで魔法覚えてきちまったんだよな。ただ、あいつ本人はオラトリオのことは夢だと思ってるから、今でも魔法が使えるとは思ってないだろうけどよ。
んで、その魔法でこいつをガキに変えちまったんだよ。こいつは今日のクライアント中司彰教(なかつかさあきのり)」
「ちょ、ちょっと、鮎川、魔法とか、パラレルワールドとかって、あんた正気?」
俺の説明にしばらくあんぐりと口を開けていた薫だが、こいつの正体を明かしたところで、やっとツッコミが入る。
「正気も何も、事実だ。現に宮本と宮本のドッペルが揃ってここにいるじゃねぇか」
「でも、そんなのあり得ないわ。二人で私を担ごうとしてるんでしょ。アレはマネキンに宮本君の服を着せたんでしょ? その手にはのらないわよ」
「正真正銘生身の宮本だ、何なら蹴り飛ばしてみろ、魔力の使いすぎでぶっ倒れてるだけだから、起きなくても反応ぐらいはするから」
薫は俺が宮本と組んでドッキリにかけようとしていると思っているようだ。俺の話を全く信じようとはしない。ある意味それは正常な感覚ではあるんだが……けどよ、コレは事実なんだよな。『事実は小説よりも奇なり』って言うだろうが。
 俺と薫がそんな不毛な睨み合いをしていると、ビクトールが、俺につかつかと近寄ってきた。、奴は、薫に分からないように目配せして俺に中司(ガキ)を渡すと、
「ガザの実もお渡ししたことですし、私はこの辺で。美久も実を食べて安静にしていれば、明日には対逆魔法をかけることができるでしょうし。私が成すべきこともないでしょうから
では、鮎川様、薫様、ごきげんよう」
とかなり深々と頭を下げた後、さっき出て来たホワイトボードの前に立ち、いきなり手をズボっとホワイトボードの中につっこんだのだった。




 

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赤ちゃんパニック 6

「み、宮本君、て、手が……!!」
「私はビクトールです。美久ではありません。お間違いなさいませんように」
薫は蒼白になってビクトールを指さす。それに対してビクトールは笑顔でそう訂正した。
「一体、何者?」
パラレルワールドのことは理解しないまでも、薫にもこいつが宮本じゃないことだけは解ったようで、薫はぶるぶる震えながらそう言った。
「ビクトール・スルタン・セルディオと言えば、こいつの世界オラトリオでは『稀代の魔術師』と呼ばれるちょっとした有名人だ」
で、奴がどう説明しようかという顔をした隙に、俺が先に薫にそう答える。
「別に有名ではありませんよ。それに稀代の魔術師というあざ名は、元々私の祖父につけられたもの。私が少しばかり祖父の能力を受け継いでいることで同じように呼ばれるようになったのですが、私などまだまだ祖父の足下にも及びません」
ビクトールは照れながらそう付け加えた。
「へぇ、じいちゃんの通り名か」
確かに、こいつの魔力には目をみはるものがあるけど、若干23歳の男が負うには少々荷が重すぎる通り名ではある。だが、じいさんの名を引き継いだのなら、それも納得だ。
「ま、魔術師」
それに対して、薫がまだ納得いかない様子で問い返す。
「そ、魔術師、手品師じゃねぇ。だから種なしなんだな、これが」
俺はそう言ってにっと笑った。
「種? 何ですかそれは」
ビクトールもそう言いながら身体をホワイトボードにぐいっとめり込ませる。薫もさすがにそれを見て俺たちが担いでいるのではないと思ったようで、ため息をついてこめかみを押さえた。
「魔法で、クライアントを赤ちゃんに……それって大事件じゃない」
「だろ、だから協力してもらいたいんだよ」
「うう、解った。解りたくないけど、解った」
そして、薫はつぶやくようにそう了承した。

「そうと決まれば、ビクトール、お前も手伝え」
「どうしてですか、もう私がやることはないでしょう?」
俺の言葉に、ビクトールはホワイトボードにつっこんだ身体を引き抜きながらそう答えた。つっこんだ身体が引き戻される様に、薫から『ひっ』というひきつった声が漏れる。どう見てもやっぱこのシチュエーションはホラーだよな。
「とにかく、こいつが帰ったってことにだけはしないとな。他社のトップクラスがウチの応接室で消えたなんてことになりゃ一大問題だ、それだけはなんとしてでも回避したい」
俺は、抱いている中司(ガキ)を見下ろしながらそう言った。
「幸い? この世界の連中に魔法使いはいないし、お前なら簡単に魔法で、自分をこいつだと思わせることができるんだろ」
なんせあのポンコツと張りぼてをすげ替えた位だしな、と俺が言うと、
「ええまぁ、やれないことはありませんが」
とビクトールは薄笑いを浮かべながらそう答えた。どっちかってぇとやる気満々なんじゃねぇか、お前。
「よっしゃ、じゃぁ俺たちは契約締結後外で会食するってことにして会社を出る」
その言葉にビクトールが無言で頷く。
「それから薫、今から宮本を何とか叩き起こすから、お前が調子が悪くて宮本に送ってもらうって体で裏からこいつを連れて出ろ。そいで、こいつの服とかおしめとか買ってこい。赤ん坊を素っ裸で長時間ほっといて風邪でも引かれたらやっかいだ。で、俺のマンションで落ち合おう。いいな」
「うん、さすがに裸のままじゃ風邪引いちゃうもんね。でも、私の調子が悪いことにするの? ぶっ倒れてるのは宮本君の方なのよ」
薫は俺の提案に首を傾げてそう返した。
「宮本が倒れたって、お前が送っていく理由付けにはなんねぇだろ。倒れたのがお前で、本当なら俺が連れて帰るとこだが、大事な客を抱えてるから代わりに宮本を行かせる。これなら言い訳が立つ」
「そうかもしれないわね」
じゃぁ、あんたが浮気したときには相当用意周到に隠すだろうから、私も注意するわと薫は上目遣いでそう言って含み笑いをする。
 ばーか、俺は浮気なんてしねぇぞ。たぶんしないと思う。しないんじゃないかな……ってか、この半マスオさん状態でんなこと、したくてもできるかってんだよっ、薫!!
 

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赤ちゃんパニック 7

「おい宮本、いい加減起きろ!」
「う、うん、痛いですよ、先輩」
 僕は向こうずねに激しい痛みを感じた。起きろって、何で先輩が僕の部屋にいるんだろう。僕は重い瞼をむりやりこじ開けて辺りを見回す。あれっ、ここ僕の部屋じゃない。応接室だ。僕の目の前に先輩の足が見えた。どうせ、先輩に思いっきり蹴られたに決まってる。
「何で、僕が応接室にいるんですか」
確かに夢の中の僕は応接室にいたんだけれど。
「お前、夢オチにするつもりか! まぁいい、とっととこれを食え」
僕の言葉を聞いて先輩は不機嫌そうにそう言って、キウイ位の大きさのしわくちゃの物を僕に投げ落とした。何となく乾燥した果物っぽい。応接室で寝ているってことは貧血で倒れたのかな。それで鉄分補給ってことか。先輩、意外と優しいんだな。でも……
「何の実ですか、コレ」
確かに鉄分はたくさん補給されそうだけど、実はアブナい実だとか言いませんよね。僕がそう言うと、先輩は疑ってるのかとでも言いたげに一言、
「ガザの実だ」
と言った。
「ガザの実! ガザの実がこの地球にも存在するんですか?」
それとも……
「存在しねぇよ。それよりお前まだ夢の中にいるとでも思ってんのか。これは現実だ、現実っ!」
んで、自分のやったことをそっこー認識しやがれ!! と先輩はそう叫んだ。
「現実?」
僕は首を傾げながらガザの実をおそるおそる口に放り込んだ。実はこの実を僕は今まで2回食べたことがあるんだけど、そりゃもうハンパなく酸っぱいのだ。酸っぱくて身体が震えるという経験を僕はこの実で初めてした。
「あ、甘い。すっごく美味しい!!」
 だけど、予想に反して乾燥したガザの実はとろける様な甘さ。
「ああ、良かった。やはり乾燥させて正解でしたね。ガザの実は酸っぱいのが一番の難点ですからね」
すると、そこに聞き覚えのある声が聞こえた。ううん、聞き覚えがあるなんてもんじゃない。自分の声そのもの。
「お久しぶりです、美久」
驚いて声のする方を見ると、先輩の横には夢の住人だったはずのビクトール・スルタン・セルディオが立っていた。
「えっ、えええーつ!!」
「だから、最初から夢じゃねぇってんだろ。おいコラ、倒れるなっ、頼むから倒れるなよ! 現実逃避するんじゃねぇ!!」
あまりの衝撃の事実に、意識を手放しそうになった僕に先輩はすかさずまた蹴りを入れる。
「生きてたんですか……」
僕はセルディオさんにそう言うのがやっとだった。
「ええ、しぶとくおかげさまで。尤も、あなたがあそこでみまかっておられたら、私も無事では済まされなかったでしょうけど。お互い様です」
するとセルディオさんはそう言って笑った。
「それにしても、さっきから足蹴にばっかするなんてひどいですよ、先輩」
それから僕がそう抗議すると、
「ばっきゃろー、お前なんか足で充分だ。それに、俺の手はそのお前のせいで塞がってんだよっ」
先輩はそう言って、応接室の絨毯にぺったりと座り込んでいる僕の方にさっきから先輩の抱えているモノを僕の鼻先に突きつける。
 そこには、気持ちよさそうに指を吸いながら寝ている0歳児が!! 僕の中で、さっきの夢の出来事が瞬時にフラッシュバックされる。
 で、セルディオさんが夢でないのなら、もしかしてもしかすると、さっきの夢も夢じゃなかったの??
 じゃぁ、じゃぁ、この人って、僕が魔法でちっちゃくした中司さんってこと!?

 Oh, my God!! 僕、やっぱりもう一度倒れて良いですか、先輩……











 

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赤ちゃんパニック 8

「ねぇ、いい加減その子に服を着せないと。それに、指を吸い始めたわ、お腹空いているのよ」
それまで黙ってたから気づかなかったけど、奥の方の椅子に谷山先輩が座っていた。その顔色は僕に違わず蒼い。僕はそれまで夢だと思っていたことが現実だと解っただけだけど(それでも衝撃的ではあるけどね)、いきなりパラレルワールドだのドッペルゲンガーだと言われた谷山先輩の衝撃はそれ以上だろう。理解の範疇をはるかに超えているって話だ。
「そう言ゃもうすぐお昼だしな。それに、おしめだけはしとかないと、赤ん坊は所構わずだろ。包んでるのは本人のもんだが、汚しちまったら、元に戻った時に着せるもんがなくなっちまうからな。何気にコレ、ア〇マーニだし。不測の事態になったら、いきなり代替えとかできねぇ」
それを受けた先輩の言葉に、一同が無言で頷く。
「そうですね、美久、そろそろ動けますか」
「え、ええ」
セルディオさんの言葉に僕は頷いた。何度も魔法を使って慣れてきたからなのか、それともガザの実は乾燥している方が効果があるのか、僕は少しふらつくもののガソリンを作ったときよりずっと症状は軽いと感じていた。
「大丈夫です」
と僕が返事をすると、
「これからだが、ビクトールにはこいつに化けてもらって俺と一緒に社外に出る。そんで、お前は薫が体調不良だから送っていく体でこいつをうまく連れて出てくれ。赤ん坊のモノを買って俺のマンションで合流だ」
と、先輩は僕にそう言った。でも、セルディオさんが中司さんに化けるってそう簡単に……まてよ、エリーサちゃんがマシューに化けられたんだから、魔法使いのセルディオさんも同じことができるのか。
「では、鮎川様参りましょう」
セルディオさんはそう言って、念を込める。すると、先輩たち二人ははぎょっとして目を瞠った。そして、
「おっ、さすがだな。ソックリだ」
って先輩が感心した様子で言うけど、僕の目にはちっとも変わらないそのまんまのセルディオさんの姿。首を傾げていると、
「美久には私と同等の魔力があるので、まったく不意打ちならともかく、それでも本来の姿を感じ取ってしまうのではないでしょうか」
と、セルディオさんが説明してくれた。そして彼は、
「それって、つまらないでしょう? 私もそう思います」
と言って先輩に続いて応接室を一旦は出たところで立ち止まり、
「あ、必ず今から40分以内にあなた方もここを出てくださいね」
と言った。
「えっ、何で40分?」
さらに首を捻る僕に、
「実はこの方にSleepの魔法をかけてあるんです。今から40分後にそれの解除魔法がかかるようにしておきますから。本来なら出たところで直接解除できれば良いんですけど、別々に行動をと言うことなので。美久、くれぐれも40分以内にここを出てしまってくださいね」
としつこく念を押す。
「どうして?」
「でないとたぶんこの方、大泣きされますよ。たぶんあなたがかけたのはこの前ミシェルに施したアレですよね」
「はい、そうですよ」
「でしたらこの方があなたのしたことを解ってではないと思いますが。
この方はは私(ということはもちろん美久も)のことが生理的にお嫌いな様なので」
「そうそう、こいつわざわざ目で追っかけてまで泣いてたもんな」
セルディオさんの言葉に対して、先輩が吹き出すのをこらえながらそう続ける。
「それは僕たちが女みたいな顔をしてるからですよ。中司さんはすごく女嫌いですから」
僕はむくれながらそう返した。
「ま、ぐだぐだ言っててもしゃーねぇ、作戦開始だ」
先輩はそう言って中司さんもどきのセルディオさんにわざと大きな声で、
「本当に今日はありがとうございました。で、今後の日程について……」
と話しながら、彼を先導して歩き始めた。

 






 

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赤ちゃんパニック 9

 後に残されたのは、僕と先輩から中司さんを預かった谷山先輩。谷山先輩は僕に、
「ねぇ宮本君、急いで私の席から膝掛けと財布取ってきてくれる。部長には私が休憩させても体調が戻らないから、連れて帰りますって言って。私、まさかこんなことになってるって思わなかったから、良くなったら戻りますって言ってきちゃったから」
と頼んだ。
「膝掛けと財布……ですか?」
「うん。鞄はロッカーにあるんだけど、肝心の財布が私の席の長い引き出しに入ったままなの。それに、膝掛けは椅子の上にちゃんと乗ってるから。
この子、こんなごわごわしたスーツにくるまったままなんてかわいそう。それに、私が男物のスーツを持っているのも、宮本君が2着抱えてるのもどっちも変だわ。私はこの子を連れてロッカールームに向かうわ」
「そんなことして見つかったらどうするんですか。中司さんは魔法で寝てるから起きないでしょうし、とりあえず中司さんをこの部屋に残して谷山先輩だけ……」
と言いかけた僕に谷山先輩は
「ダメよ、鮎川たちが交渉を終わって外に出たんだから、ここには直に誰かが片づけに来るわ。それに、ロッカールームに行けさえすれば大丈夫よ。宮本君もそこに私の私物を持って来て」
ぴしゃっとそう言い、じゃぁあまり時間はないからと、僕を置いてさっさとロッカールームに向った。もうこうなれば、彼女がその道中社内の誰にも会わないことを祈るばかりだ。僕もあわてて総務に向かう。そして、谷山先輩に言われた通りに上司の門田さんに伝える。
「そうか、やっぱりな。実は薫姫、最近あんまり調子良くなさそうなんで、内心心配してたんだよ。ちょこちょこ吐くのを堪えてるようだったしな。
俺から会長補佐にチクるのもねぇ」
薫姫はなんか理由付けて辞めさせられるって、戦々恐々としてるとこあるからなと、門田さんはそれを聞いて苦笑した。谷山先輩、このことがなくても体調良くなかったんだ。もしかして、最初に見たとき顔が蒼かったのも、驚いていただけじゃなかったのかも。
 あ、ちなみに会長補佐というのは先輩のこと。今、会長は奥さんの実家にいるから。社長は小説の仕事が忙しいし、実質今から社長みたいなモノなんだよね。でも、会長補佐って、なんか苦肉のネーミングだと思わない?
 そんなだから、先輩の方はもうすぐにでも結婚したいと思っているみたい。でも、谷山先輩の方がまだ仕事をしていたいと渋っていて、結局あれから1年以上も経つって言うのに、この二人はまだ結婚していないのだ。
「薫姫に、あしたは週末だから気にしないでゆっくり休めって言っといてくれ」
僕はそう言う門田さんに再度頭を下げてロッカールームに向かった。
 ロッカールームのドアをノックすると、中から谷山先輩の
「入って」
と言う声がした。でも当然だけど、そのロッカールームは女性用。『入れない』僕がそう思って逡巡していると、
「早く入って。そこに立っているのを見られる方がやばいから」
と谷山先輩に言われて、慌ててあたりを見回して中に飛び込む。すると、そこにはベビーキャリーが用意されていた。スーパーの買い物かごに被せて使うタイプのマイバッグの中に、書類を入れるトレーを仕込んだ苦肉の策だけど。でも瞬時にこんなこと、よく思いついたもんだ。
「宮本君、そこに膝掛けを敷いて」
谷山先輩は、トレーの中に膝掛けを敷くように言い、僕がそうすると、そこに中司さんを
「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね」
と言いながら寝かせて、それを僕に託した。
「さぁ、本当に時間がないわ、行きましょう。重いけど、絶対に落とさないでね」
と、自分は別の紙袋に彼の着ていたもの一式を詰め込んでロッカールームを出る。
 僕は『命の重み』をずっしりと肩に食い込ませて彼女の後に続いた。







 

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赤ちゃんパニック 10

 歩くほどにしっかりと食い込んでくる、だからといって、荷物みたくその辺に放り出せない。それはまさに『命の重み』そして、僕のしたことの『責任の重み』に他ならない。とは言え、僕も自分が魔法が使えるとちゃんとわかっていたら、迂闊にこんな大魔法なんて詠唱しなかったに違いない。
 違う、知らなくて良かったのかもしれない。もし知っていたら、僕は時々見ているオラトリオの夢の中でセルディオさんが使っている大魔法をきっちりチェックして、その効果も考えないで、もっと取り返しのつかない魔法を詠唱していたかも。
 どっちにしてもこの今が現実なのだから、とりあえず急ごう。中司さんにとっても、この時期にこんな化繊のテントみたいな所に長時間入れられているのはイヤだろうし。
 そう思いながら会社の廊下を歩いていると、後少しで通用門を出ると言うところで、谷山先輩が立ち止まる。僕が慌てて彼女の顔をのぞき込んだとき、
「おう、薫ちゃんどうした?」
と、廊下横のブースから声がした。守衛の村井さんだ。彼は僕らの環境が一瞬にして変わっても態度をぜんぜん変えなかった人の一人。彼は社員みんなの良きおじさんなのだ。
「うん、何でもないです」
すると、そう言いながら谷山先輩は僕に目配せした。ああ、一応伏線引いておく訳ね。
「何でもないですじゃないですよ。谷山先輩、すぐに我慢しちゃうんだから」
だから、僕は彼女に合わせて一芝居打ってことさらに谷山先輩の体調不良をアピールしてから、
「じゃぁ僕、谷山先輩を送ってきます」
と言って彼女の肩を抱く。
「そう言ゃ、薫ちゃん顔色良くないな。んじゃ、お大事にな。宮本君頼むな」
村井さんはすっかり真に受けてそう言って手を振ってくれた。
「ありがとう、じゃぁお先に失礼します」
「失礼します、村井さん」
僕たちはそう言ってやっとこ会社を出た。そこで改めて谷山先輩の顔を見る。外の日差しに照らされたその顔はいつもより白い。
 もしかしたら、谷山先輩は本当に気分が悪くて立ち止まったのかも。

 それから車にたどり着いた僕は、まず後部座席のドアを開けて中司さんを降ろした。そして、
「谷山先輩、助手席だと丸見えだから、後ろに乗ってください」
と言った。
「えっ? お店わからないでしょ、私が運転するわ」
「何言ってるんですか、送られる人が運転したら、シャレにならないでしょ? まだ、100%会社を出た訳じゃないんですよ」
「あ、そうね。じゃぁ、鍵貸してくれる?」
谷山先輩はそう返して、僕から車の鍵を受け取った後、助手席に座り、財布から何かを取り出すとエンジンをかけて、ナビをいじくり始める。
「これで、OK。宮本君、ここに行って」
と言うと、僕が中司さんを降ろした方とは反対のドアから車に乗り込み、中司さんを簡易キャリーから出し、抱き上げる。それを見届けて僕は、ドアを閉めて運転席に乗り込んだ。
 僕は『ナビ様の言う通り』に走り出した。谷山先輩が打ち込んだ目的地は『赤ちゃんキャッスル〇〇店』赤ちゃん洋品の大型専門店だ。
「谷山先輩、何でこんな店知ってるんですか?」
(会員証まで持ってるみたいだし)
「私この店の会員なのよ。あ、何か変なこと考えてない? 絵梨紗やデビ君の物を買うのによ」
その質問に、谷山先輩は少々ふくれっ面でそう答えた。クラウディアさんに日本語の読み書きは荷が重いし、でも絵梨紗ちゃんはまだ会員登録出来る歳じゃないから、谷山先輩がサポートしているという事だった。でも、何でそこで怒らなきゃならないんだろ。
 そして、ナビ子さんが美しい声で
「目標が近づきました。これでナビを終了します」
と言った直後だった。
「ふぐっ、ぐすっ、おあっ、おんぎゃぁ~!!」
中司さんがけたたましい声で泣き始めたのだ。

-た、タイムアップだ……-





 

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赤ちゃんパニック 11

 僕が車を停めると、谷山先輩は急いで車を降りた僕に中司さんを渡すと、
「お願い」
と財布をつかんでとっとと一人でお店の中に入ろうとする。僕が、
「えっ、僕は?」
と言うと、谷山先輩は
「これじゃ中に入れないじゃない。宮本君じゃどこに何があるかわからないでしょ」
ほぼ裸の中司さんを優しく見つめながらそう返して、中に消えていった。
「びわーん!!」
彼女の気配がなくなって、中司さんは僕では役不足と言わんばかりに、さらに激しく泣き喚く。揺すってみてもトントンとお腹でリズムを取ってみても全く効果なし。
 抱き方が悪いのかと思って腕(かいな)に手を入れていわゆる縦抱きにしたときのことだった。
「うわっ!!」
僕は中司さんの『放水攻撃』に遭った。そう、おしっこをひっかけられてしまったのだ。それも顔にダイレクト。ストライプのワイシャツにも被害が。
 誰でも良いから、いきなりの大ダメージにも彼を落とさなかった僕を褒めてほしい。中司さんはそんな僕の声に一瞬泣くのを止めたものの、真正面から僕と目が合って再び大泣き。
(ホント、泣きたいのは僕の方だよ)
 でも、傍目から見るとそんな僕たちは持っている服を全部汚されてしまって、慌てて買いに来ているだけに映るらしく、エンジンを止めてしまった車の温度と、泣き声に耐えかねて車をを降りてしまってだっこしている僕に、買い物に来た人は、驚くどころか、くすりと笑って『大変ですね』と声をかけお店に入っていく。僕があたふたする様子も、普段子育てに参加してない新米パパだとでも思われているのかも知れない。
 谷山先輩は、さすがに会員だけあって比較的短時間で戻ってきてくれたけど、その時点で僕はもうボロボロだった。彼女は、
「あら、やられちゃったわね」
と笑いながら僕にトランクを開けて後ろの座席をフラットにするように言った。僕が彼女の言うとおりにすると、彼女はまず買った物の中からタオルケットを取り出して敷くと、僕から中司さんを受け取ってそのタオルケットの上に寝かせた。
 続いて、おしりふきを取り出すと、最初の一枚を取り出して残りを僕に手渡した。
「顔は中で洗うとして、とりあえずシミにならないようにそれで拭いておいた方が良いわ」
と言った。
 僕が言われたとおりに拭きながら見ていると、彼女はさっき取った一枚で中司さんのお尻を拭いて、ネズミのキャラクターの紙おむつと、ブルーで胸元にくまさんのタオル地のアップリケのついたベビー服をてきぱきと彼に着せつける。その慣れた動作に、彼女が絵梨紗ちゃん兄弟の子育てを手伝ってきたことを改めて理解した。
 そして、完全ベビー仕様になった中司さんを谷山先輩は、
「はーい、できましたよぉ。じゃぁ行こうね」
と言って抱き上げる。すると、あんなに大泣きしていた中司さんがぴたりと泣き止んだのだ。
 
 えっ、中司さんって、女嫌いじゃなかったの??

 
 
 



 

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赤ちゃんパニック 12

 谷山先輩はさっきのベビーキャリーもどきから書類ファイルを取り出して、そこに両手のついたコップと、小さな白いキューブを入れた。
「それ、なんですか?」
「ほ乳瓶と粉ミルク。ココならお湯も貰えるし、まだ買う物もあるしね。
本当はどうなのか判らないけど、見た目だけで考えると8ヶ月ぐらいだと思うから、こっちが手を添える形より自分で持たせる形の方が、気分良く飲んでくれるのよね。乳首を付けずにコップとしても使えるしね、目盛りもついてるから、計量カップとしても使えるし」
僕の質問に谷山先輩は、中司さんの頬をくりくりしながらそう答える。そう言えば、一番上の兄のとこのセリちゃん(姪)が似たようなのを持ってたような気がする。にしても、四角い粉ミルクねぇ。お味噌汁にもフリーズドライとかあるけど、やっぱ何か妙。
「まだ、何か買うんですか?」
「とりあえず今着る服を買っただけだし、さっきの宮本君みたいなこともあるんだから、予備は絶対に要るわ。それに、お風呂の後の果汁とか、そうそう、鮎川のベッドに寝かせる訳にもいかないから、布団も買わなきゃね」
そういう谷山先輩は心なしかとても楽しそうだ。でも、僕には何だかそれが少し危険なことのような気がした。
 確かにさっきみたく不測の事態は起こるかも知れないけど、僕の今の体調を考えると、要ってもそれも明日の午前中まで。それに、それぐらいまでに中司さんが元に戻ってくれないと、人一人が忽然と消えてる訳だから、中司さんの側がいないことに気づいて大騒ぎになる可能性が高い。
 だけど、谷山先輩が買ってきたのは、おむつもお徳用の大入りパックだし、ミルクも旅行用のではなかった。それは、たった一時間ほどの間にもう中司さんと離れ難くなっているってことだ。
 僕が対逆魔法を唱えたとき、谷山先輩は逆に冷静でいられるんだろうか……
 お店の最上階にある食堂で、元気にミルクを飲んでいる中司さんに向かって、
「美味しい? 彰教ちゃんはホントに良い子だね」
と、慈愛に満ちた顔で囁く谷山先輩を見ながら、僕はそう思った。
 
 



 

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赤ちゃんパニック 13

 中司さんがミルクを飲んでいる間に僕たちも軽くお腹に入れて、買い物を再開することに。
 食事中、中司さんをずっとだっこしていた谷山先輩に、
「僕はぜんぜん分からないから、谷山先輩が選んでくださいね」
だから、僕がだっこしますよと僕は中司さんの前に両手を出した。だけど、彼はひゅっとその手を谷山先輩の方に伸ばして、彼女にしがみつこうとする。その様子を見て、彼女がぷっと吹き出したけれど、僕は構わず彼の脇に手を突っ込んで引き剥がした。その途端、中司さんは頭が下になるくらいそっくり返り、火がついたように泣いて暴れる。
まるで、誘拐犯にでもなった気分だ。
「やっぱりダメみたいね。宮本君には荷物持ちしてもらうから良いわよ」
谷山先輩はそう言いながら中司さんの前に手を差し出す。すると中司さんは、思いっきり手を伸ばして谷山先輩に縋りつき、その胸の中にすとんと納まるとピタッと泣き止んだ。何とも現金なことで……
「大丈夫ですか? この子結構持ち重りがしますよ」
さっき、立って抱いていた時でもだんだんに重みが増してきたもの。慣れもあるのかも知れないし、だからといって放り投げる訳にもいかないのだろうけど、世のお母さんたちは本当に偉いと思う。
「大丈夫よ、買い物カートについている座席に座らせるから」
 そう言って歩き出す谷山先輩に、僕も慌てて続いた。
 だけど、その買い物カートにも中司さんは頑として乗らず、結局急遽だっこバンドを買う羽目になってしまった。おむつもミルクも消耗品だし、服は必要だからまだしも、布団と言い、こんなのはなんだかなぁ……と思っていると、僕の携帯に電話が入る。先輩からだった。
「買い物済んだか?」
「後少しで」
布団もパジャマも買ったし、たぶん。
「じゃぁ、もう出られるな。ところでお前、XXの『メルヘン』って喫茶店は知ってるな」
「ええ、知ってます」
知ってるも何も、僕があることで足重く通っているおなじみのお店だ。
「俺は会社に戻んなきゃなんねぇから、ビクトールをそこに迎えに行って、マンションに戻ってくれ」
「はい、わかりました」
って答えたけど、何だかイヤな予感がする。あの店を選んだのは、絶対先輩じゃなくってセルディオさんだと思う。
 先輩の電話を受けて、僕たちはいっぱいの荷物を載せて『メルヘン』に向かった。
 で、店の扉を開けてまず目に飛び込んできたのは、予想通りお店の名物メニュー、『ジャンボプリンパフェ』にかじりついているセルディオさんの姿だった。もう、半分以上食べ尽くしていて陥落間近。
「お、宮ちゃんも来たな。さすが兄弟だな、良い食いっぷりだぜ。双子なんだってな」
「え、ええ」
双子と言うことにしている訳ね。僕は、適当に相づちを打つ。
「大体、アレを一人で食い切れる奴はそうそうはいない」
と、人の良い店のマスターは笑う。だけど、
「ま、不思議と、こういうもんは女の方が完食するもんだがな」
と続けたので、僕はあわてた。
「そ、それセル……いや、あの子に言いました?」
それで、僕はぐっと声のトーンを落としてマスターにそう聞いた。
「いや?」
僕のあわてようにマスターは首を傾げる。
「それ、彼の前では絶対に言わないでくださいね」
「か、彼ってことは、男か!?」
セルディオさんが男だと分かってマスターは素っ頓狂な声を上げる。ぼくは人差し指を口元にたてて、
「ええ」
と頷く。
「スカート穿いてるのに?」
あれは、魔術師のローブで別にスカートでもワンピースでもないんだけどな。って言っても地球人のマスターに解る訳はないし。
「あ、あれは仕事上仕方なく……でも、本人気にしてますから。でないと……」
ひどい目に遭います。僕は、赤ちゃんがもう一人増える図を想像してぞっとした。



 





 

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赤ちゃんパニック 14

「あ……あの、いや、待った? その……トール」
 僕はセルディオさんをどう呼んだら良いのかで迷った。僕の双子の兄? 弟? だと言うんだから、ビクトールまたはセルディオと本名で呼ぶわけにはいかないから。すると、セルディオさんが『トール』と2度口パクで言ったので、それに乗っかる。そっか、ビクトールのビクじゃなくってトールなら、トオル(徹・透・亮・亨……等々)って日本名っぽいもんね。ってコレ、先輩の入れ知恵だろうか。それともセルディオさんが自分で思いついた? だとしたらセルディオさんスゴすぎ。
「ええ、ちょっと……おかげでゆっくりこちらを堪能できました」
フルーツもプリンも生クリームもこんなに一度に頂いたのは初めてですと、セルディオさんはほくほく顔でそう答える。でも、双子設定にしたんなら、弟(どう見ても僕の方が年下っぽいと思わない?)にこのくそ丁寧なしゃべり方は止した方が良いと思うんだけど。ま、二度と二人でこの店に来ることもないだろうから良いんだけどね。セルディオさんは、
「へぇ、お召し替えするとますます可愛いですね。で、こういうのをなんて言うんでしたっけ。あの、『お孫さんに衣装』でしたっけ」
と言いながら中司さんに笑みを向け、彼の頬を突くけど、彼は露骨にイヤな顔をして庇護を求めるように抱いている谷山先生の顎元にその手を伸ばす。
「それ以上するとまた大泣きするから止め……といた方がいいと思うよ。それに、それを言うなら『馬子にも衣装』だし。馬子、馬番のことだよ。普段、みすぼらしい恰好をしている馬番でも、着飾ればそれなりに見られるっていうのが元だからね」
僕はセルディオさんにつられて丁寧口調になりそうなのを必死に抑えながらそう言った。
「へぇ、馬番のことですか、勉強になります」
だから、日本の諺まで理解してるのには敬意を表するけど、丁寧口調は止めてって。
 僕はセルディオさんを『ジャンボプリンパフェ』の完食と同時に即刻店から連れ出した。
「あーいう客商売の人たちって、客の会話を聞いてないようで聞いてるもんなんだからね」
僕は先輩のマンションに向かう道中、セルディオさんに懇々と説教して走った。
 そして、僕たちはようやく先輩のマンションへとたどり着いた。ホント、ここまで長かった。
僕はリビング横の和室に荷物を置くと、どっと疲れを感じてへたり込んだ。乾燥ガザの実は生より回復が早くうまくすれば今日中に対逆魔法が唱えられると思ってたけど、最後の最後にセルディオさんにみんなエネルギーを持ってかれちゃった感じがする。
 まぁ、先輩が戻ってきてからこの先のことは相談して決めれば良いかなと、和室に中司ベビーの空間ができるのを見ながら、僕はソファーで何時しか船出していた。



 





 

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赤ちゃんパニック 15

「おい、こら起きろ。それにしてもこの喧噪でよく寝てられんな」
 僕は先輩に新聞を丸めた筒で殴られて起こされた。あたりはもう既に真っ暗で、中司ベビーがミルクだかおしめだか解らない催促で顔を真っ赤にして泣いていた。夢の中でミシェルが(オラトリオの。社長じゃないよ)泣きながらセルディオさんを探していたのは、中司さんがこっちで泣いていたからなのかな。
 結局、ミシェルはテオブロ改めデニス・ガーランドさん(改心したようなんで、ちゃんとさんづけしとこぉっと)になだめられて、彼の物語を聞きながら寝ちゃったんだけどね。
「それだけ疲れてるんですよ」
と僕が返すと、
「にしても自業自得だ、お前」
と、先輩にもう一度さっきの新聞紙で殴られた。パコーンと妙に小気味良い音がリビングに響く。そこで中司さんがピタッと泣き止んだ。その音で泣き止んだかと和室の方を見ると、件の中司さんは用足し(後から本人から聞いた)から戻ってきた谷山先輩に吸いつくようにしがみついている。そんな中司さんを優しく見下ろしながら、谷山先輩は足でリズムを取りながらゆっくりと彼を揺すっていた。その姿を見て先輩が、
「おい、さっきからなに独占してやがんだ。薫はてめぇのもんじゃねぇ。ちっとは離れろ!!」
中司さんを引き剥がそうとする。
「鮎川、泣くから止めなさいって。それにしても、赤ちゃん相手に何ムキになってんのよ」
谷山先輩はそれを笑いながらやんわりと制する。
「こいつ、ホントはガキじゃねぇ! 俺より年上なんだぞ。おっさんにまとわりつかれてると思うと、我慢できるか」
そしたら、先輩はそう言って歯をむき出した。ぷぷっ、先輩ヤキモチ焼いてるんだ。
「でも、今は赤ちゃんよ」
それを谷山先輩は、余裕で受け流している。だけど……
「おかしいな、中司さんはものすごく女嫌いだったはずでしょ。僕がお茶を運んだら、
『契約締結に女なんかよこすな』
って、そりゃすごい剣幕でしたもん。僕が男だって分かっても、
『そんな紛らわしい顔をしてるな』
って怒るんですから。だから、僕つい言い返したちゃったんです。
『あなただってお母さんから生まれてきたんでしょ、何も木の股から生まれてきた訳じゃないんですから。そんなのあなたのお母さんに失礼ですよ』
って。
そしたら、中司さん、
『俺には母親なんていない! 俺にアレの話なんかするな!!』
って僕につかみかかろうとするんですもん。
で……こんな人、もう一度赤ちゃんからやり直せば良いんだと思ってね、つい……」
「で、こいつをガキに変えちまった訳か。お前チビだとか女顔だとか、そういうことにナーバスになり過ぎなんだよ」
僕は、首を傾げながら中司さんを赤ちゃんに変えてしまった経緯を話す。それを聞いた先輩はそう言って眉間を抑えた。その言いぐさに、
「そんなの背が高くて男らしい先輩に言われたくありません」
「所詮、恵まれた鮎川様には私共の気持ちなど解らないのですよ」
僕たちはほぼ同時に同じような意味のことを返した。それを見て谷山先輩が、中司さんを落とさないように、畳に座り込んで大笑いしている。

……先輩たちには絶対に解って貰えっこないだろうけど、これは僕たちにとってはかなり重要なもんだいなんだよね(ぶつぶつ)

「Reverseの呪文は、その方の体の時間を逆回しするもの。当然頭も体ですから赤子のこの方の記憶も乳児期のものですけど、今のこの方は女性嫌いどころか、片時も母代わりの薫様から離れるのを嫌がっているご様子。一体どうして、大人の彼は女性を毛嫌いするのでしょう」
 谷山先輩の笑いが治まったのを見計らって、僕が一番疑問に思っていたことをセルディオさんが先に口にしてくれた。
「それか……それはこいつが5歳の時に母親に捨てられたからだ」
で、それに対して出てきた先輩の答えに、僕とセルディオさんは驚いて互いの顔を見合わせた。




 





 

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赤ちゃんパニック 16

「せ、先輩、捨てられたってどういうことですか」
確か、中司さんは自社の御曹司だったはず。その彼が母親に捨てられたってどういうこと?
「あぁ、正確に言えば少なくともこいつはそう思っているだろうってことだ」
そう言って、先輩は中司さんについて調べ上げたことを話始めた。こういうデータ収集が先輩はとんでもなく得意だ。
 今こんな風にして成り行きで社長見習いなんかしてるけど、一般社員のままでリストラとかされることになっても、十分探偵として食っていけるんじゃないかと思うほど。情報ソースはもちろん明かしてはくれないけど、どっからそんな重箱の隅みたいな情報を見つけてくるんだといつも思う。その点で谷山先輩の婿選びはホントに正しかったと思うんだよね。
「こいつには公表はしてないが双子の弟がいる。母親は5歳の時、その弟だけをつれて中司の家を出た。
それまででもこいつの母親は、こいつを放っておいて弟ばかりにかまっていたって話だから、こいつに良い母親の記憶なんざ一つもないんだろう。挙げ句の果てに、弟だけを連れて家を出ちまったんだから、捨てられたと言っても過言じゃねぇ」
「どうしてですか、その弟様というのはそれほどすばらしい能力がある方だったんですか?」
以外と親は平等に子供を愛さないものですけどね、とセルディオさん。
「そうじゃない、いや? ある意味そうかもしれねぇが。宮本、サヴァンシンドロームって言葉を知ってっか」
「サヴァンって……イデオ・サヴァンのこと?」
先輩は、そう言って僕にその質問を振ってきた。それに対して僕は頭を振ったけど、代わりに谷山先輩がその言葉に反応してぼそっとそう尋ねる。
「ああ、それだ。イデオが不快語に当たるから、今はそう呼ばれている。知的な障害を持つ代わりに、芸術面に特化している奴のことだ。サヴァンってのは、フランス語で賢人って意味。ちなみにイデオは白痴だけどよ。こいつの弟、寺田彰幸(てらだあきゆき)は、そのサヴァンシンドロームなんだよ」
(ミシェル……)
知的障害という言葉に、僕とセルディオさんは一人の人物を思い浮かべて同時に息をのむ。
「双子で生まれてきたこともあって、こいつと弟の反応の差は一目瞭然で、周りは早い内に弟の発達障害を認識した。
で、母親はその手のかかる弟の発達を促すのにかかりきりになった。
んなもん誰のせいでもないんだが、自分が生んだ子供の障害に罪悪感を感じる母親は意外と多い。
けどよ、それが父方の親――つまり、こいつのジジババだ――には気に食わなかったんだよ。
『こんな子は中司家の恥』
『跡取りを放っておいて、そんなバカに構うなんて以ての外だ』
とかさんざんに言いまくって、端金で母親と弟とを屋敷から叩き出したってのが本当のとこだ」
「そんなのひどいよ」
それを聞いて、谷山先輩が中司さんを改めて胸元に寄せる。
「んで、当のこいつには『母親はお前を捨てて出ていった』と吹き込んだ。元々あんまし構われてなかったのは事実だし、実質こいつを育てたババは自分たちを正当化するために母親をこき下ろし続けたからな、こいつはそんなババにもウザさを感じてすっかり女自体がダメになっちまったって訳」
「かわいそう、彰教ちゃん。今日はずっと一緒にいてあげますからね」
中司さんの女嫌いの理由(わけ)を全部聞き終わった谷山先輩はそう言って、彼に頬ずりをした。
「確かに不幸って言ゃぁ不幸だが……だからって、おまえが母性本能発揮してどーすんだよ」
「だって、ずっと愛されてなかったんでしょ。悲しいじゃない」
だって、こうしていられるのは今晩だけなんだし抱き癖もつかないからと、谷山先輩。
「ついたらどーすんだよっ! 他全部ダメなのにお前だけOKとかなったら!!」
そして、抱き癖という単語に過剰に反応した先輩は再び中司さんを彼女から引きはがそうとする。
 先輩、そうなってもどうもしないでしょ。中司さんが縦しんば谷山先輩に恋い焦がれても、先輩たちが相思相愛ならそれで無問題。完全に先輩のヤキモチなんだよね。
 ……でも、この二人に男の子が生まれたら、案外毎日こういうやりとりが聞けるかもしれないな。そう思って笑いを必死でこらえる僕たちに、
「おい、宮本、ビクトール、何笑ってやんだ。コレは重大な問題なんだぞ」
と、先輩だけが一人苦虫をかみつぶしたような顔でどっかとソファーに座り直した。













 





 

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赤ちゃんパニック 17

「そいで、こいつの手帳にこれが挟まってた」
それから先輩はそう言って一枚のチケットを僕たちの前に振りかざした。で、それを覗き込んだセルディオさんが
「色彩の天使、寺田彰幸展ですか……来週の火曜日が最終ですね」
と、チケットを読み上げる。これには先輩はもちろん、僕まで驚いた。
「げっ、お前なんで読めんだよっ」
「何故なんでしょうね、ふつうに読めましたが。美久もオラトリオの魔道書をすんなり読みこなせてたじゃないですか。それと同じことです」
「そう言われれば、そうですね」
セルディオさんの説明にあっさり納得してしまった僕に先輩は、
「同じな訳あるかっ!! まぁいい、話が進まねぇ」
と吠えながら頭を抱える。大体、パラレルワールド自体通常理解のキャパオーバーしてるんだもん、もう何でもアリで良いんじゃない?(良くない?)
 そして僕が、
「でも、寺田彰幸って中司さんの弟さんですよね。色彩の天使っていうことは画家なんですか」
と聞くと、
「ああ、けど書くんじゃなくって貼り絵らしいが、ただそれはまるで写真のような精巧さらしい」
と、先輩は頷きながらそう答えた。
膨大な色調の中から的確にピックして陰影まで描き出してしまうその集中力は、サヴァンシンドロームの特化した芸術性の表れだと。
「で、なぜこのチケットをこの方が持たれていたんでしょう」
「弟が送りつけてきた……なんてことはねぇわな」
「ないでしょうね」
「母親でしょうか」
男たちがチケットを眺めながら首を傾げていると、
「きっと、自分で手に入れたんだわ。彰教ちゃん、本当はお母様に会いたいのよ」
谷山先輩が中司さんを見下ろしながらぽつりとそう言った。
「そうですか? 僕に中司さん『アレの話はするな!!』って怒鳴ったんですよ」
僕が思わず彼を赤ちゃんにしてしまうほどの剣幕だったんだから。
「ううん、きっとそう」
それでも、谷山先輩は寧ろ確信に満ちた顔でもう一度そう言った。それを見て先輩が
「そうかもしれねぇな」
と彼女の言葉に同意する。
「先輩までそう思うんですか」
納得できない僕に先輩は、
「だってそうだろ、宮本、愛情の反対語って何だか知ってっか」
と、質問を質問で返してくる。
「憎悪ですか?」
「ブッブー、ハズレ」
「じゃぁ、何なんですか」
愛情の反対は憎しみじゃないの? 完全にギブ状態の僕に、
「マザーテレサ曰く、無関心だとよ」
と、したり顔で答える。
「言われてみればそうですね、憎悪は愛情の裏返しかもしれませんが、方向性は同じ」
それを聞いて、セルディオさんもそう言って納得顔で頷いた。そう言われても僕はいまいち納得できないんですけど。
「そうさ、ムキになって否定する時点で、こいつは母親を求めてるって暴露してるのさ」
そんなもんですかね。本気で嫌ってるって可能性もないですか?
 
 それから僕たちは明日の朝、問題の寺田彰幸展の会場近くのどこかで中司さんを元の姿に戻して彼を会場に連れて行くことを話し合った。
「これで明日のあらましは決まったな。じゃぁ、そう言うことで解散。もう帰って良いぜ」
すると先輩はにっこり笑ってそう言った。
「どこに帰れって言うんですか」
と、憮然としてそう聞く僕に、
「お前のアパートに決まってるだろ。お前、このままここに泊まる気だったのか?」
と、あきれ顔で先輩がそう返した。
「僕の安アパートじゃ、セルディオさんと二人では寝られないですよ。それに疲れがとれなかったら、明日の朝対逆魔法唱えられないですよ」
ホントは同じ顔の二人であのアパートに戻って誰かに見られたくないだけだけど。僕がそう言うと先輩は、
「んなもん、どっかホテルにでも泊まれ。会場近くに泊まってれば明日も楽だぞ」
と気楽に言う。
「誰がお金を出すんですか」
と僕が言うと先輩は、
「決まってる、お前だ」
と即答する。それに、
「えーっつ、そんな!」
と不満の声を上げる僕に、
「そんなじゃねぇ。元はと言えばお前のせいだろ」
先輩はそう言って僕とセルディオさんをマンションから放り出した。
 ホントなら出さなくて良いホテル代、しかも二人分。ラブホなら少しは安くなるだろうけど、男同士、しかも同じ顔のセルディオさんとなんか絶対に行きたくない。ホント、とほほな気分だ。
 僕は、手近なホテルをモバイル検索して、予約の電話を入れた。













 





 

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赤ちゃんパニック 18

 翌朝、僕たちと先輩たちとは喫茶店「満福珈琲館」前で待ち合わせた。ここは最終目的地、中司さんの弟さんの個展会場に近いのはもちろん、フロアがとんでもなく広く、一番奥の座席に陣取れば、店員さんは最初に注文を取ってそれを持ってくるだけでそれ以降全く現れない。混んでなければこんな奥まで誰も来ないし、またそれほど混むこともない。だから、何をしていても何時間いても大丈夫という店なのだ。
「しっかしまぁ、お前よくこんな都合の良い店知ってたな」
薄暗い通路をぐっと奥に進みながら先輩が欠伸をしながらそう言った。
「えへへ、そうでしょ。ここ、僕たち北高漫研部員はオアシスって呼んでましたから。
大体ウチ、3人兄弟で家で原稿書いてられる環境じゃなかったですからね。それに、あーいうのって、試験前になるとどうしても書きたくなるんですよね。親に見つからずに書くのに、僕らにはここは必要不可欠だったんです」
僕がそう返すと、先輩はもちろん谷山先輩まで引いた。
「宮本君、武叔父様と気が合うはずだわ……」
谷山先輩がぽつりとそうつぶやく。心なしか唇も震えていて、昨日よりさらに顔色は良くない。
「谷山先輩、大丈夫ですか? 先輩に任せて休んでいれば良かったのに」
すると僕の発言に先輩はちっちっと舌を鳴らして指をフルと、
「それもこれもこいつのせいだ。薫がちょっとでも下ろすと泣くんだよ。ようやく本気で寝入ってベッドに寝かせたのが明け方の4時だぜ」
と、言ってて大欠伸をした。それから、
「そんなだから、今朝はこいつがまだ寝てる間に俺一人で連れて行くつもりだったんだ。けど、俺が抱き上げたとたん目を覚ましやがるんだ。んで、薫が抱くまでどうしたって泣き止まねぇ。まったく、今まで満たされなかったもんを埋めてんのかどうかは知らねーが、いい加減にしてくれってんだ」
と言って、盛大にため息をつく。それほど、中司さんは今、母親を求めているということなのだ。
 僕は、それが彼が乳児化したからだけではない気がした。
『彰教ちゃんはお母様に会いたいのよね』
優しくそう言う谷山先輩に、彼は涙で答えているのかもしれないと思った。















 





 

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赤ちゃんパニック 19

「それではそろそろ始めましょうか」
注文した飲み物がやってきて、店員さんが表側の方に消えていったのを見計らってセルディオさんがそう言った。
 それからセルディオさんは、中司さんを抱いている谷山先輩の前にさっと両手を差し出して、彼を抱こうとした。案の定、中司さんは谷山先輩の胸にくしゃっと顔を歪めてしがみつく。
 そして、中司さんが再度その『唯一安心できる場所から引き離す者』をのぞき込んだその時、セルディオさんがパチンと指を鳴らした。そのとたん、中司さんは泣く寸前の顔のままコトンと首を谷山先輩の胸に戻した。それを見て、その場のセルディオさんを除く三人から安堵のため息がもれる。セルディオさんは、
「まったく、冷や冷やさせんじゃねぇよ」
と文句を言う先輩に、
「対人魔法は相手がこっちを見てくれないとかかりにくいんですよ」
と笑顔で言いながら、紙袋から取り出した中司さんのドレスシャツとボトムをまるで人が倒れているかのように床に順番に並べた。ご丁寧にボトムには下着もセットしてベルトまで通した。そして、谷山先輩に、
「薫様、ご足労ですがこの方のお召し物を全部とってくださいませんか。私がやるとその小さな方のどこかを痛めてしまいそうです」
と言ったので、谷山先輩が中司さんを素っ裸にしてセルディオさんに渡す。セルディオさんは、中司さんをそのドレスシャツの部分に寝かせ、上からきっちりボタンをしていく。
 そして、ドレスシャツの裾をボトムの中に入れ込むと、僕に向かって、
「さぁ、準備はできました。ちゃんと、対逆呪文は頭に入ってますね。」
と言った。僕は黙って頷いた。何でかは分からないけど、オラトリオの魔法の呪文は一度聞いたら忘れない。下手な外国語より確実に身に染み込む気がする。
 僕は、ふっと大きく息を吐ききると、両手を開いて前に出し、
<汝その若返りし身体を元の齢に戻せ Grow!!>
と、高らかに対逆魔法を唱えた。
 すると、少しずつぺちゃんこだったドレスシャツの下の部分に膨らみ始めた同時に、少しずつ袖のところも膨らんで行く。Growだから高速成長の魔法なのだろう。
 真っ裸だったらものすごい勢いで成長している中司さんを見られたんだろうなと残念に思いつつ、それだと谷山先輩にはものすごく刺激的な絵面になってしまうからダメだなと納得する。それに、元に戻った中司さんに服を着せるのも一苦労だし、ビニル製の人形に空気を入れているみたいで、これはこれで面白いかも。
 だけど、『かわいい彰教ちゃん』がおっさんになっていくのはショックだったみたいで、谷山先輩はただでさえ悪い顔色をなお悪くして席に倒れ込む。まぁ、僕もその前にに大魔法のショックで席にへたり込んであわてて乾燥ガザの実を口に入れて見てたんだけどね。
 ものの3分ほどで元のの29歳に戻った中司さんを、セルディオさんが魔法で身体を浮かせて、僕らと通路を挟んで反対側の座席に座らせて、セッティングが完了した。
 それから、中司さんを座らせた席に先輩が頼んだ『満福珈琲』を置き、先輩が表の方に追加注文に行く。

 さぁ、これから第2場のスタートだ。

 












 





 

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赤ちゃんパニック 20

 パチンと、小気味の良い音とともに中司彰教は目覚めた。ずいぶんと長い時間眠っていたような気がする。
 だが、ここはどこなのだろう。ランプをかたどった照明に照らされて、等間隔に並べられた木製のテーブルにビニル貼りのソファー。何かの店にいるのだろうか。
 第一、ここに来た記憶がない。いや、正確に言えばないこともないのだが……
 櫟原に新製品のライセンス契約締結に向かって、そこで女みたいな男性社員に食ってかかられたことまでははっきり覚えているのだが、そのあとの記憶が曖昧だ。
 曖昧というのは正しくない、認めたくない正解だろう。なぜなら、その女顔の男性社員に食ってかかられたとたん視界が反転して、次に気がついたときには赤ん坊になっていたというバカバカしいものだったからだ。赤ん坊になった自分には本来(29年間)の記憶がなく、母親と思しき若い女性に世話をされていた。自分はその女性をひたすら目で追って泣いてばかりいたという、しっかり思い出せば恥ずかしさで死んでしまえるような内容で、その女性に抱かれてこの店に来たという記憶がおぼろげながらあった。
 いや、そんなのは夢だ、夢に違いない。第一、赤ん坊に戻るなんてあり得ない。首尾良く契約が締結されて、ほっとして眠ってしまっただけだ。
 だが、契約を締結どころか交渉したことすら記憶にない……そしてまた、あの恥ずかしい夢? が頭を掠めるのだ。彰教が頭を抱えてテーブルに突っ伏そうとしたとき……
 彰教は、自分の席に珈琲らしきものが置かれているのに気づいた。しかし、何故それが珈琲だと断定できないかというと、香りはまさしく珈琲なのだが、いかんせん色が醤油なのだ。彰教はとりあえずそれを口に運んだ。こんな妙な飲み物でも、飲めば頭がすっきりするかもしれない、そう思ったからだ。
「う、うまい……」
その飲み物は予想に反して美味かった。間違いなくそれは珈琲で、確かに濃かったのではあるが、濃いからと言って大味になることなく、どちらかと言えば繊細な味だったのだ。少し冷めてしまっていてもこれだけ美味いのだから、ちゃんとした温度ならもっと美味いに違いない。
 そのとき、斜め向かいの席から、
「先輩、ここです、ここ」
と言う聞き覚えのある声が聞こえてきた。そして、通路を歩いてきた人物に彰教は声を掛けられた。
「あれ、中司さんじゃないですか」
その人物を彰教は何となく覚えているのだが、どうしても名前が思い出せない。一度でも会った人物の名前は忘れない方なんだがと思っていると向こうから、
「昨日はどうも。いろんなお話が聞けて楽しかったです」
と言ってきた。昨日? 昨日はどこにも行かずに今日の契約の資料づくりをしていたはずだ。彰教が首を傾げていると、斜め向かいの座席から、
「えっ中司さんがここにおられるんですか?」
という声が聞こえ、だだだっと、こちらの席まで小走りでやってきた人物に彰教は、
「あっ」
と声を上げるほど驚いた。声に聞き覚えがあったはずだ、
「中司さん、昨日は失礼な発言をして、まことに申し訳ありませんでした」
と深々と頭を下げたのは、件の女と間違えたら食ってかかってきた男性社員だったからだ。しかし、それが昨日? 彰教は思わずスーツのポケットからスマホを取り出してみた。するとスマホの時計表示は土曜日の午前10時24分を示している。バカな、あれから一日たっているというのか。自分はその間いったいどこで何をしていたと言うのだろう。まさか……認めたくない映像が脳裏でどんどんと繰り広げられ、冷や汗が背中をつたう。彰教は、
「いや、こちらこそ大人げなかった」
と無難に言うのがやっとだった。











 





 

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赤ちゃんパニック 21

「本当に申し訳ありませんでした。いきなり殴りかかったりするなんて。でも、中司さんが心の広い方で本当に良かった。こいつを放り出した後、そのまま交渉に応じてくださったときにはホッとしましたよ」
女顔の社員に続いて、最初に声を掛けてきた上司と思しき男性も彰教に笑顔で頭を下げる。と言うことは、彼が昨日の交渉相手なのだろう。
「もう、本当にそのことは良いですよ」
彰教は面倒臭そうにそう言った。本当に昨日の契約交渉が恙無くいったのなら、後のことは思い出したくない、それが本音だった。
 
「満福珈琲のお客様は?」
「ここです」
その時、店員が珈琲を持って現れ、女顔の社員が自分たちの席に店員を導く。彼らのテーブルに置かれた『満福珈琲』は、先ほど彰教が訝りながら飲んだそれだった。案の定、上司はその珈琲を見て固まっている。とりあえず彼は店員を見送った後、
「宮本、コレ醤油の間違いじゃねぇのか」
と言った。それを聞いて彰教は思い出す。そうだ、あの女顔の社員は宮本と言う名字だった。俺はあの時、あまりよく顔をみないまま名刺を差し出されて、宮本美久という名前を、みやもとみくと読んだ。そして名刺から目をはずして改めてその人物の顔を見たんだ。
 で、俺はキレた。女を寄せ付けないと聞いていた誰かが、変に気を回して女に男の格好をさせたと思ったのだ。そんなことをされるくらいなら最初から女のままの方がまだましだと。 
 しかし、彼は男装をしていた訳ではなく、本当に男性だった。しかも、普段から女みたいだと言われているのがコンプレックスになっているらしく、彼は自分がクライアントだと言うことも忘れて、激怒して、
『あなたなんか、もう一度赤ちゃんからやり直せばいいんです』
とヒステリックに叫んだ。
 だが、そこまでは鮮明に思い出すのに、その後のことが全く思い出せない。交渉したという上司の名前はおろか、交渉内容もちっとも思い出さないことに、彰教はまた焦り始める。
 いや、まてよ? そうだ。交渉しているのなら名刺が残っているはず。彰教は一縷の望みを託して名刺入れを見た。そこには、件の宮本美久の名刺とともに、『櫟原株式会社 会長補佐 鮎川幸太郎』の名刺が入っていた。助かったと思った。だが、鮎川という名字に、
(鮎川……そうそう、あの女性はあの男を家でそう呼んでいた)
と、やはり連鎖的に母親代わりの女性の顔がちらつく。彰教は名前が分かった安堵感のあと、またあの忌まわしい記憶に引きずられて、無意識にため息をついていた。
「うぇ、こんなモンがホントに美味いのか?」
 一方、鮎川は珈琲カップを持ったもののまだそう言って飲むのをためらっていた。
「美味しいですよ、いくらここが長居できるからって、肝心のコーヒーが不味かったら、僕たちも贔屓にしませんよ」
唯でさえ金のない高校生はその辺シビアですよと、その言葉に宮本はそう返していた。
「いや、私も最初びっくりしましたが、このコーヒー、なかなかですよ。鮎川さんも熱い内にどうぞ」
自分と違って、せっかくできたてがそこにあるのだから。彰教はそう思いながら鮎川に勧めた。
「そうですか、そいじゃぁ……ホントだ。色に似合わずすっきりしてる。中司さんのような洗練された方が、通われることはあるな」
そして、彰教に勧められた鮎川は、一口飲んでそう言って口角を上げたが、
「じゃぁ、お前はなんでプリンなんて食ってやんだよ」
と言って、宮本を睨む。
「それは、彼が……」
宮本が口ごもっていると、彼の座っている席の奥から、
「お店にプリンがあればそれは食べなければならないでしょ、鮎川様」
と、声がする。しかも、その声は宮本そっくりだ。彰教は思わず身を乗り出して彼らの座席をのぞき込んでしまう。そこで宮本の奥の座席に座っていたのは、茄子紺の奇妙な衣装に身を包んだ、宮本そっくりの奴だった。
(宮本も双子か。しかし、こいつはさらに性別が分からないな)
 こいつも櫟原の社員か? 休日だからってこんな奇妙な恰好をしている社員のいる会社とライセンス契約などして本当に良かったのだろうか。彰教が昨日の契約に一抹の不安を感じた時、その宮本その2の向かい側の席から聞こえてきた声に彼は身体を硬直させることになる。
「そうよね、あんたどんだけにプリンが好きなのよ、トール。ねぇ鮎川、昨日私たちが迎えに行ったときも、この子ジャンボプリンパフェ完食してたのよ」
昨日の今日でまたプリン食べる? 普通。と笑い転げながら話しているのは、昨日一日彼の母親代わりとして、甲斐甲斐しく世話をしてくれたあの女性だったからだ。














 





 

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赤ちゃんパニック 22

 10分後、彰教は宮本たちと一番行きたくない場所に向かって歩いていた。
 彰教が硬直してしまったあの女性は谷山薫という、櫟原の現社長の姪にあたるそうだ。
 現社長は齢50にして独身のため、彼女が実質櫟原の後継者だという。だが、彼女自身は経営に手を出す気はなく、実際にはその婚約者の鮎川幸太郎が徐々に経営を引き継ぐべく修行中だとか。
「その……あなたも櫟原の社員なんですか?」
 それから、彰教が遠慮がちに宮本そっくりのトオルとい男に問うと、
「いえ、会社勤めはしたことがありません。まぁ、城も会社とさして変わりはございませんけどね」
トオルは、真顔で恰好に違わぬ奇天烈な答えを返した。それに対して、宮本が、
「トール、『知らない人』にそれ言っちゃだめだよ。ここは『ニホン』なんだから」
谷山が、
「あ、驚かせてすいません。そのトールは、外国……そう、外国で生活してるんです」
と、続いて鮎川も、
「そう、そう、外国! 昨日、久しぶりに日本に帰ってきたんで、空港まで迎えに行ったんだよな、宮本」
と何やら大慌てで、トオルの発言のフォローを始める。
「そ、そうなんです。ちょっと超魔術の修行に……」
「へぇ、マジシャンですか」
そうか、イリュージョニストか。そう理解した彰教に、
「ええ、『稀代の魔術師』呼ばれた祖父を目標に、世界一の魔術師になるべく修行の日々を送っております」
トオルが笑顔でそう答えると、何故だかそんなトオルを宮本が睨んでいる。高名な祖父の技術を受け継いだ同じ双子のトオルを、やっかんでいるのだろうか。どうも見るからに宮本は手先が不器用そうだからな。
 
 しかし、『稀代の魔術師』なんて通り名のマジシャン、いたっけ……彰教がそう思って首を傾げた時、それを見た谷山が焦った様子で、
「あ、もうそろそろ行きましょうよ」
と言った。
「そうですね。早く行かないとお昼になっちゃいます」
と、宮本もホッとした様子でそれに同調すると、
「そうだ、僕たちこれから個展に行くんですけど、中司さんもご一緒にいかがですか」
と、彰教を誘う。
「い、いや……私は」
個展という言葉に、彰教はイヤな予感がして口ごもった。そして、程なくそのイヤな予感は的中する。
「寺田彰幸っていう、貼り絵画家なんですけどね。何でも貼り絵なのに、まるで写真なんだそうです」
宮本に続いて鮎川が補足の説明を加える。(やっぱり、彰幸の個展か)
「いえ、私は……」
それに対して、彰教は断りの辞を述べて、その場を去ろうとしたができなかった。それは続いて谷山が、
「どこまでも細密なのに、どこかほんわかと暖かくて。私、ファンなんです。中司さんも是非、ご一緒に」
と、きらきらした瞳でそう言ったからだ。彼女にそう言われると、彰教は何故か断ることができなかった。

 そして今自分は、『寺田彰幸』展を目指して歩いている。『ドナドナ』がBGMで聞こえてきそうだと、彰教は思った。

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赤ちゃんパニック 23

 そして、一行は寺田彰幸展の会場にたどり着いた。最後尾で他の面子に隠れて会場入りした彰教はいきなり、
「ああ、やっと捕まえた!」
と中年の少々(本人はそう思っているが、実はかなり)メタボ気味の男にがしっと腕を掴まれた。
「先生、なんでそんなとこにこそこそ隠れてるんですか。着替えが終わったらすぐインタビューだって言ってたでしょ」
男は彰教に向かってそう言った。どうやら自分は彰幸と間違われているらしい。幼い頃ならともかく、この歳になれば環境や体格などの生後の要素で顔つきも変わっているかもと、淡い期待を抱いていたのだが、どうやら彰幸は今でも自分にそっくりらしい。
「あ……俺は彰幸じゃ……」
彰教はそう言って、男の手を振り解こうとするが、がっついオヤジの手は振り回しても振り解けない。
「真砂さん、彰幸くん怖がってるじゃないですか。それに彼、先生じゃわかんないですよ。寺田くんか彰幸くんでないと反応してもらえません」
その様子を見て、自分ぐらいの歳恰好の男性がそうフォローを入れてくれた。
 確かに、彰幸には自分の名前以外の呼称に反応する力量はないのかもしれない。だが、別に俺は男の事を怖がってもいないし、第一俺はそもそも彰幸じゃない。
「おお、そうだったな。じゃぁ、彰幸くん、行こうね」
彰教はアドバイスを踏まえてか、声のキーを上げて一転ガキ相手口調になった真砂という男を睨み上げて、
「だぁから、俺は彰幸じゃねぇってんだろ!!」
と叫んだ。普段の彰幸がどんな口調で話しているかは知らないが、真砂はもちろん、フォローした男もフリーズしている。だが、フォロー男は意外と早く立ち直り、ぷっと吹き出すと、
「彰幸くん、それ新しい遊びなのかな? 別の人ごっこしてるの?」
と彰教に聞いた。
「ごっこもクソもない、俺は……」
寺田彰幸じゃない、中司彰教だ! 彰教がそう叫ぼうとしたその時……
「あ~、僕と同じ顔。同じ顔はのりちゃんだよね、のりちゃん。お母さん、お母さん、のりちゃんが来ました」
そう言いながら彰教より若干背が低いものの、全く同じ顔をした人物がにこにこ笑いながら彰教に駆け寄ってきたのだった。その後ろには目にいっぱいの涙を溜めた母の姿があった。

赤ちゃんパニック 24

 全く同じ顔が二つ。彰幸が公開インタビューのためにいつになくスーツを-しかも偶然にも同色の-を着用しているため、向かい合う彰教と彰幸はまるで透明の鏡の内と外のようだった。若干彰幸の身長が低いので、尚更奥行きを持つ鏡っぽく見える。
「彰幸くん……彼は……」
みんながあんぐりと口を開けて立ち尽くす中、フォロー男がいち早く立ち直ってそう聞く。
「八代さん、のりちゃんは彰幸のお兄ちゃんです」
フォロー男(八代というらしい)の質問に、彰幸は相変わらず笑顔でそう答えた。
「へぇ、ずっと会ってなかったんだろ。良かったね」
その言葉に八代はああ、と頷きながらそう返す。寺田彰幸の表向きのプロフィールには、兄弟がいることは記されていない。まぁ、これだけそっくりの顔なのだから、兄弟か、そうでなくても従兄弟ぐらいだと想像はつきそうなものだと、彰教も思ったのだが。
「そうです、僕はのりちゃんに会いたかったです。でも、のりちゃんはお父さんの会社の偉い人だから、忙しくて来られないとお母さんは言ってたです。でも、のりちゃんは来てくれました。のりちゃん、ありがとう」
彰幸はそう言って彰教に一旦は両手を差し出したが、あっと何かを思いついたようにその手を引っ込めると、こつんと自分の頭を叩いて、
「あ、インタビューだ。僕また忘れました。
のりちゃん、僕、絵のお話するです。だからあっち行きます。だからのりちゃんとお話できません。のりちゃんはは、お母さんとお話するです」
そう言ってスタスタと設えられたミニ会見場に小走りで向かっていった。
 後に残されたのは約25年ぶりに会った親と子。そこはかとなく気まずい空気が流れていたが、幸太郎は心配そうに遠巻きにみている薫を
「俺らができるのはここまでだ。後は俺らが口出しできる問題じゃねぇ。それより彰幸の話、聞いてやろうぜ」
と言って、彼女の肩を抱き、ミニ会見場に設えてあるパイプ椅子へと導いた。


-*-*-*-*-*-*-


「行かなくて良いのか。彰幸ひとりで」
彰教は不機嫌そうにそう言った。
「編集者の八代さんが一緒にいてくれれば大丈夫よ。あの人が『色彩の天使』として取り上げてくれて、今日ここまで漕ぎ着けられたの」
それで、返す母の言葉で会見場に目をやると、八代は彰幸を上手くフォローして答えを引き出させている。彰教がその姿を食い入るように見つめているのを見て、
「心配しないで、実はあの方の妹さんも知的障害で、学校が一緒だったの」
母は、そう付け加えた。
「俺は、心配なんかしていない。それより、何で俺にチケットなんか送ってきた。ミュートス(※)にかわいいかわいい彰幸ちゃんを全面的にバックアップしろってか。
それなら、お断りだし、俺はもう帰る」
彰教がそう言い放って会場を後にしようとした時だった。
「それは、私がお前の机に置いたんだ」
そこには、彰教がこの場にいると思わなかった人物が立っていたのだった。

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赤ちゃんパニック25

「お、親父……」
「なんだ、私がここにいるのがそんなに不思議か」
驚いた顔で父親を見る彰教に、彼の父はそう言った。
「親父は、彰幸や……その……この人がどうしてるのか知ってたのか」
そして、遠慮がちに言った彰教に、
「そりゃ、女房や息子のことだからな」
父親は当然のようにそう答える。
 確かに、彰幸との血のつながりは切れないが、自分を置いて、さっさと出て行った女は、父にとっては赤の他人だろうが。
「それを言うなら、元女房だろ?」
笑顔の父親に納得行かない彰教はそう返した。だが、その彰教の言葉に父親はなんと、
「私は律子と別れたとは思っとらんよ。私が律子たちを中司の籍から出したのは、彰幸に辛く当たる母さんから律子と彰幸を守るためだ。家にいるほどは一緒にはおれないが、定期的に顔を出している」
と言うではないか。
「それを知らなかったのは俺だけだってか」
彰教はそう言ってキッと自身の父親を睨むと、
「そいで俺だけを除け者にして3人で親子水入らずか!」
と声を荒げた。
「お前には悪いことをしたと思っている。だが、本当のことを話すとおまえは母さんを恨むだろう。甲斐甲斐しくお前の世話を焼く母さんを見てると、それはできなかった。それに、律子がお前には言うなと言ったんだ」
「なんでだ、そうかそれほど俺よりあんなミソっかすが大事か!! そうだよな、何の芸もない俺とは違って、今や大画家様だもんな」
「違うわ、違うわ……教ちゃん」
「何が違う!!」
「彰幸はね、教ちゃんより何倍も手をかけてやらないと一つのことができなかった。だから、私は彰幸につきっきりにならざるをえなかったの。でも、それをまだ小さな教ちゃんに理解してもらうことは到底無理。あなたはいつも私たちの事を遠巻きに見ていたわね。
そんなとき、お義母様から屋敷を出ていくように言われたの。その言いぐさは決して優しいものではなかった。彰教ははミュートスを背負って立つのだからこの子にこそ手をかけなさい、それができないのならこの家を出なさいと。
私だって、もっとあなたにかまいたかった。だけど、彰幸にはイレギュラーが利かないから、どうしても彰幸を優先せざるを得なかったの。
でもね、お義母様も彰幸が憎くてそう言われているのじゃないって、彰幸が一人の人間として立って行くには片手間じゃだめだ、私に専念しなさいと言ってるんだって解ったかの。それで、私はあの時中司の家を出たのよ。
それにね、家を出るときにね、お義母様は言ってくださったの。『あなたは彰幸をしっかり育てなさい。その代わり彰教の事は任せて』と。お任せして良かったわ。こんなに立派に成長してくれて……」
母はそう言って大粒の涙をこぼした。

 だが、それが真実なのなら、すべての元凶は祖母だったというのか。彰教は祖母から『すべて悪いのはあの女だ』と、母の悪口をさんざん聞かされた。
『母親を恋うなんて女々しいことは止めなさい。あなたはミュートスのトップとして、学ぶこともすることもたくさんあるはずです』
そう言われて育った。
 でも、きっとそれは母を恋しがって泣き続ける幼い自分に対して、甘やかすことの下手な祖母の不器用すぎるエールだったのだろう。
 彰教はふと壁に目をやって、弟の作品を見た。そしてその中の一つに目を瞠る。その絵の題は『いちばん』。それは、彰教が小学校4年の時の「徒競走」で一位をとった瞬間の写真を元にしたものだった。
 遠目からみると写真のように見えるが、近づいてみると多様な紙をびっしりと貼り合わせているのだとわかる。目を凝らしてみると、それはチラシだったり、雑誌だったり……幾重にも貼られているそれは、写真よりも立体的で、奥行きを持っている。すごいと思った。
「彰幸にとってはね、あなたは自分にできないことができる一番な存在なの。
だから私は良いけどあの子は嫌わないでやってね」
母が絵を見つめる彰教に向かってそう言った。別に嫌うとかそういう問題ではない。だだ、あるのは一人蚊帳の外だったことが悔しい、そんな子供じみた感情だけだ。
 それに、自分は彰幸より確かに勉強はできるかもしれないが、ただそれだけだ。スーパーマンのような言いぐさは何だかむずがゆく感じる。
-ごく当たり前の親子・兄弟でいたかったな-
そう思ったとき、
-なら今からそれを取り返せばいい-
彰教は何故だかそう思った。昨日、赤ん坊に戻るようなあんな『夢』を見たからかもしれない。
「嫌うも何も、俺はもうあんたのことも彰幸のことも覚えちゃいないんだよ。だから嫌いようがない」
彰教は絵から目を離さずそう言った。

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赤ちゃんパニック 26

 程なくして、彰幸のプチインタビューが終わって、彰幸が彰教のところに走ってきた。
「彰幸、走っちゃダメ」
それを見た母親が彰幸を窘める。
「早くしないと、のりちゃんお仕事です。忙しいから帰るです」
それに対して、彰幸は母親にそう返した。彰幸に兄と急に会えなくなってしまった理由を、これまで母(あるいは父も)は『学校』だとか、『仕事』だとかと言い繕ってきたのだろう。もちろん、彰幸はそれを鵜呑みにしてしまう。
「お袋、俺をどんだけ仕事人間みたいにこいつに言ってんだよ。彰幸、今日は仕事は休みだ。何なら今日このまま中司の家に帰るか」
彰教は眉に皺を作りながらそう言った。しかもその表情は穏やかだ。25年のブランクを全く感じさせないその発言に両親は驚いて声も出ない。
「のりちゃんは中司彰教、中司の家はのりちゃんの家。じゃぁ、今日はのりちゃんの家でお泊まり!? やった、のりちゃんの家にお泊まりだぁ!!」
彰幸は、それを口に出しながらたどるように順に咀嚼していき、兄がかつての我が家に迎え入れてくれていると解るとそう言って破顔し、ピョンピョンと飛び跳ねている。
「そうだ。だけど、彰幸も元々は中司なんだぞ」
しかし、彰教がそう言うと、彰幸は小首を傾げて、
「違います、僕は寺田彰幸です。中司はのりちゃんです」
と言う。
「だから、小さい頃はお前も中司だったんだって」
彰教がぶっと吹き出しながら弟の間違いを訂正する。
「僕が中司彰教?」
どうやら、彰幸の中では中司と彰教はセットらしい。中司と言えば父親も中司なんだがな……と彰教は苦笑したが、たぶん、彰幸の中では父は中司彰文ではなく、『お父さん』なのだろうと思い当たった。寺田姓の彰幸には、父の名を書くことも告げることもおそらく今までなかったはずなのだから。
「お前は中司彰幸だ、中司彰幸。なぁ親父、うるさいばーさんももういないんだし、そうじゃなくても、彰幸もこんなに立派に一本立ちしてるんだ、中司の家呼び戻してもいいだろ?」
「も、もちろんだが、お前……私たちのしたことを恨んでないのか」
「恨んではないよ。ただ、こんな優しい母親やかわいい弟と25年も離れていたことが悔しい。それはめちゃくちゃ根に持ってるぞ。だから、一刻も早く家族で暮らしたい。いいよな、親父」
「ああ、関谷にすぐ連絡しよう。関谷もきっと喜んでくれる」
父はそう言って中司家最古参の使用人に連絡を取ろうとその場を離れようとした。だが、母親の
「あ、ありがとう……お母さん本当にうれしいわ。ただ、今日いきなりはムリなの。いきなり中司の家の行ってしまったら彰幸、はしゃいでまったく眠れなくなってしまうわ。それでなくても、ここ何日かはこの個展で興奮してあまり寝てないのよ。体調を崩してしまわないように、個展が終わって落ち着くまで待って。
ごめんね、教ちゃんの言ってくれたことは本当に嬉しいの」
の言葉にその足が止まる。
 そうだった、中司の家にいた頃から、彰幸の体調はたびたびその感情に引きずられた。急激な環境の変化に対応できないのだ。悲しいときはもちろん、嬉しいことが募ってもぐったりしてしまう彰幸が幼いときは解らなかったが。
彰教は黙って頷く。それを見た母親は、今度は彰幸にむかって、
「彰幸、今日はまだここが終わってないから、お泊まりはなしね」
と、言った。すると彰幸は、
「のりちゃん、お泊まりって言った。彰幸お泊まりする」
とふくれっ面でうつむく。
「彰幸、ここはお仕事でしょ。お仕事は」
だが、母親にそう言われてハッとした表情をして、
「彰幸は大人です。大人はお仕事、ちゃんとやります」
と口をへの字に曲げてしぶしぶそう口にする。
「はい、そうよね。教ちゃんのお家はお仕事が全部終わってからね」
「お仕事終わったら良いの? いつ、いつ!」
だが、彰幸の機嫌は母親に仕事が片付いたら家に行ってもいいと言われて一瞬で直ってしまう。
「明日ね」
それに対して母親は明日だと言った。彰幸は
「明日、明日はのりちゃんのお家、嬉しいな」
と言って、またピョンピョンと飛び跳ねた。しかし、個展が終わるのは三日後、なんでも鵜呑みにしててしまう彰幸に、明日なんて言って良いのかと彰教が思っていると、
「明日にはまた明日だと言うんだ。それで一週間くらいは引き延ばせる。それに、あまり先の日付を言うと、彰幸は待ちきれないんだよ」
それに対して父親が彰幸に聞こえないようにそう説明を加えた。
 こんな風に彰幸と暮らすためには細かい独自のルールが必要らしい。それを祖父母や使用人のいる中司の家で徹底させるのは大変だったのかもしれなかった。大人になったいまでもこんななのだから、幼い頃にはもっと細かいセオリーがあって、それが破られる度、彰幸は混乱していたのに違いない。それを祖母は見ていられなかったのだろうと思う。
「じゃぁ、帰りにプリン食べるか? プリン好きだったろ。お袋、それくらいなら良いだろ」
ならと、持ち出した譲歩案に、母親は笑顔で頷く。
「やったぁ、プリンだプリン! 八代さん、八代さん、今日はもうおしまい良いですか?」
すると、彰幸はそう言いながら今度は八代の所へ走って行った。
「彰幸くん、どうしたの」
「彰幸、のりちゃんとプリン食べるです」
「そう、良かったね。でも、今日は土曜日でまだまだいっぱい見に来てくれるだろうから、ちょっと今からおしまいはね。そうだ、プリン、買ってきてあげるよ。奥の部屋で一緒に食べればいい、ねっ」
「はーい」
八代の提案に、彰幸は元気に返事をする。
「じゃぁ、僕ちょっと行って買って来ます」
「いや、そんな。俺が言い出したんだから、俺が買って来ますよ」
「いいえ、いや、僕嬉しいんです。彰幸くん、お兄さんのことが好きでしょうがないんですよ。ずっと自慢してたんですからね。そのお兄さんにやっと会えたんですから。これは僕からのお祝いです」
八代はそういって、表に飛び出していった。

 本当に魔法にかかったようだった。昨日までは想像もしなかった『家族』との邂逅。すべてはあの宮本という男の罵倒から始まった、そんな気がする。
(案外宮本もトオル同様、ものすごいマジシャンと言えばそうなのかもしれない)
彰教がそう思ってほくそ笑んだ時、会場の奥のほうで悲鳴が聞こえた。
「すいません、連れが意識をなくして……どなたか救急車の手配をお願いできませんか!」
そう叫んでいるのは件の宮本で、慌ててそこに駆けつけると、あの『夢』での母親代わりの女性、谷山薫が倒れていたのだった。 

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genre : 小説・文学

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