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バニシング・ポイント1




               ――私は先のある未来に絶望した――


                「バニシング・ポイント
                       Vanishing Point」






意味を成さなくなった年中行事


 ――7月1日――

 私は今年もやっぱり「ソレ」を書いていた。15歳になったときからお正月と、誕生日のある7月1日の年二回、「ソレ」を書くことは私の義務だった。
「裕美、やっぱり今年もそれ書いてんの?ま、悪いこっちゃないけどさ」
そう言って、断りもなしに人んちに上がり込んできたのは、幼なじみの衛。
「何となくね、年中行事……って奴かな」
「でもさ、今思ったんだけど、ワープロでそんなもん書いても意味なくね?」
続いて衛はそう言って笑った。ワープロで書いた「ソレ」は法的に意味を成さないものなのかどうかは私は法律に詳しくはないので、判らないけど、私にとって「ソレ」を書くこと自体がもう意味を成さなくなっているような気がする。

私は、ツールバーのファイルをクリックし、『名前をつけて保存』を選択し、遺書21歳夏と書き込んでファイルを保存した。










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バニシング・ポイント2

 私が毎年二回遺書をしたためる訳は、私の両親がごく普通の仏教徒ではなかったから。だからといってアヤシイ宗教ではないし、亡くなった時点でちゃんと家族が手配してくれるだろうから、そんな心配はいらないはずではあるのだけれど、
『一応本人も希望しているっていう方がやりやすい』ということで、遺言書が書ける15歳の誕生日間近の7月1日から私は誕生日と新年(数え年で歳を重ねるという意味で) に年二回遺書を書いてきたのだ。

 私は難病指定の病気に罹っていて小さい頃から入退院を繰り返し、たぶん成人はできないだろうと言われていた。

 ところが、ひょんなことから私の病気の治療法が見つかり、18歳の春、私はまさに九死に一生を得たのだ。
「定期検診にはもちろん来てもらわないとダメだけど、もう入院なんてことはないだろうと思うよ」
私を小さいときから診てくれている鹿島先生は、目を細めながらちょっと残念そうにそう言った。
「お祈りは聞かれるのよ。私、鳥肌立っちゃったわ」
「俺はまだ興奮してるよ。奇跡が起こる瞬間を目の当たりにすることができたんだからな」
帰りの車の中でそう興奮しながら話すパパとママ。

 だけど、手放しで喜ぶ周りの反応を見ながら私の心は冷めていた。
確かに命を永らえられることは嬉しくない訳じゃない。でも……

私は永らえた命で何をしたいのか、何をすべきなのかが全く分からなかった。贅沢だ! と私の入院仲間は挙ってそう言うだろう。なら、私の生を自分に回せと。

 でもね、今まで私は自分の人生設計を20年の枠でしか設定してこなかった。私は今まで死ぬ準備しかしてこなかった。そんな私にいきなり生きろと言われても、『はい、そうですか』と踵を返して歩き出すことなんて、私にはできなかった。
 それでも、20歳までは想定範囲内だったから、何とか生きてこられた。

 だけどそれもあと数日。私は7月10日に21歳の誕生日を迎える。
  
 何の夢も希望もない私の明日が始まろうとしていた。

theme : オリジナル小説
genre : 小説・文学

コンサート-バニシング・ポイント3

コンサート

(やっぱり、こいつは今年も遺書を書いてやがった)
博美の白すぎるうなじと書いているものに似つかわしくない笑顔の横顔を見ながら、衛は博美に聞こえないようにため息を落とした。

 最初に遺書を書いてるのを目撃したのは16歳のやはり夏だったか……遺書と言っても自分の葬式を両親たちの宗教に則ってやると言うこと以外には生前のつきあいに感謝することくらいだ。まだ未成年の博美には財産なんてないし、そうでなくても博美はまったく物に対して執着がない。だから、そんなもの書かなくても何の支障もないだろうに。衛はその時でもそう思った。ましてや、病気が完治した今、余計必要ないものを今更まだ書こうとしていることが解らない。
(人間一寸先は判らないって言うけどさ)
治って久しいその病から博美はいつになったら解き放たれるのだろう。

「今日は何?」
「あ、忘れてた。blowing the windのコンサートチケットが手に入ったんだけど」
衛はコンサートチケット2枚を広げて博美の前で振って見せた。
「blowing the wind!」
blowing the windと聞いて博美は目を輝かせて食いついてきた。物に執着のな博美が唯一こだわりを見せるのが病床で聞いていた音楽だった。
「名古屋だけど」
「名古屋なの?」
だが、博美はコンサートが隣県で行われると知って少し顔を歪めた。精力的にいろんな町でコンサートをしている彼らは、もっと近くの会場でもコンサートを行うことを博美は知っていたからだ。
「こっちのは会場が小さいからとれなかった」
それに対して衛はそう答えた。しかし、本当はとれなかったのではなく、とらなかったのだが。人気フォークデュオのコンサートは、会場が大きかろうが小さかろうがチケットの入手は同じくらいに困難だ。このチケットも、発売日前日から名古屋の発券所で並んでまでとったものだった。
「でも、名古屋なんて、遠いよ」
「姉貴の車借りていけばその日のうちには……ちょっと日付は跨ぐかもしんないけど、帰れるからさ。車ん中でコンサートの余韻を楽しむってのも悪かないし。」
「……うん……でも他の人を誘えば?」
熱心に誘う衛だが、博美の表情は硬い。
「お前行きたくないの?」
しびれを切らせた衛がそう聞くと、裕美は頭を振った。
「じゃぁ、行こうぜ」
「うん、そうする」
博美はにこりともせず真顔でそう答えた。
「はぁ……せっかくのプラチナチケットムダにするかと思った」
(……ったく、何で俺が名古屋で徹夜までしてこのチケットをとったと思ってんだよ! お前と行きたいからだろ。
それに没られたら、帰り道にコンサートで歌われるあの定番のヒット曲に乗せてコクるっていう俺の計画が台無しになるんだよ!)
衛はやっとの事で承諾をとりつけ、半ば脱力しながらそう思った。

 この時衛は博美の心の中にある闇の深さにまだ気づいてはいなかった。

バニシング・ポイント4

 実際問題、この辺の人は名古屋には買い物で出かけるということも多い。毎回終了時間を大幅に伸ばしてしまうそデュオのコンサートでなければ、電車で充分大丈夫な距離だ。それだけでも、博美が世間並みの20歳の女性然ととしていないことがよく判る。

 それでもコンサートの当日、彼女の姉にもらったというワンピースを着、うっすらと化粧をして現れた博美は衛が息を呑むほど美しかった。
「ほ、ほら乗れよ」
衛は体を精一杯伸ばして、助手席のドアロックを外した。博美は一瞬固まった後、車に乗り込んだ。二人きりで出かけるのに、こいつはやっぱり当然後部座席に乗るもんだと思ってたみたいだ。(だから、背伸びして親父の5ドアを借りずに姉貴の2ドアにしたんだ)衛はその選択をこの後、悔やむことになるのを彼はまだ知らない。

 車は軽快に走り、二人は他愛のない話で盛り上がった。そして、開場よりずいぶん前にたどり着いた二人は、車を駐車場に預けてコンサート会場に向かった。それでも、すでにかなりのファンが集まっていた。どうせさっさと入場し、開演までにコンサートグッズを手に入れるためだろう。二人は列に並んで開場を待った。やがて人の波に攫われるように開場に入る。コンサートグッズを横目で見ながらホールに入り席に着いた。そのとき、博美の様子はごく普通だった。

 だが、大好きなはずのアーティストのコンサートが終わった後、彼女はどこか青い顔をしていて、口数が少ない。結局、帰りもグッズなど見ることなく二人はその会場を後にした。
「なんか食って帰るか?」
会場を出たところでそう聞いた衛に、
「ううん、食欲ない。ゴメン、衛はお腹すいたよね。」
博美は気遣うような眼で頭を振った。会場の人混みにやられたのかもしれないと思った。なので、衛は
「いいよ、俺はハンバーガーでも食いながら走りゃそれで良いから」
と言うと、都会ではごろごろと乱立しているチェーン店のハンバーガーショップでいくつかバーガーを買い込んだ。そして、全く何もお腹に入れないのもどうかと思って、博美にはアイスコーヒーを注文し、直接彼女に持たせる。
「ありがと」
ストレート派の博美はそれに何も入れずに一口すすり、やっと笑った。

 それから駐車場に戻り、むんむんとする車に乗り込む。そして、博美が乗り込んでコーヒーをドリンクホルダーに突き刺したのを確認して、衛は袋からハンバーガー一個とドリンクを取り出すと、残りの袋を博美に預けて、自身もドリンクをホルダーに突き刺し、車を発進させた。
「運転しながらじゃ危ないよ」
博美は発進してからバーガーの包みを開けようとする衛の手からそれをひったくり、食べやすいように折って衛に手渡した。
「お、サンキュ」
衛は前を見ながらそう言うと、バーガーにかぶりついた。
車内にはさっきまで聞いていた、そのデュオの一番のヒット曲であるラブバラードが静かに流れていた。こういうシチュエーションに余計な言葉は要らないのかも知れない、衛はそう思った。

 しかし、最後ののバーガーをもらおうと
「博美、剥いてくれよ」
と声をかけて衛は食べている間裕美が声をかけてこなかった本当の理由を知り、あわてて車を脇に停めた。
「博美、どうした!!」
「い、息ができない……」
博美はそう言って脂汗を流して喘いだ。


 

 





バニシング・ポイント5

 衛はとりあえず博美のシートベルトを外した後、少し走って公衆電話を見つけると路肩にハザードを焚いて停めた。
「ちょっと待ってろよ、博美んちに電話してから病院にすぐ行くからな」
衛は博美にそう声をかけると電話ボックスに縋り付き博美の家――名村家の電話番号を押す。県外に居るので市外局番から押さねばならないのがもどかしい。
「はい、名村です」
5回のコールの後、博美の姉順子が出た。
「俺、俺。順子姉ちゃん?」
「衛君? 何よそんなに慌てて。ヒロとケンカでもした?」
順子はくすくすと笑ってそう言った。いつもならそれに対して言い返すのだが、今はそれをする気持ちの余裕すらない。
「博美、博美がおかしいんだ。また、あの病気? 息ができないって言い出して……俺、どうしたらいい? このまま病院?」
「ヒロ息ができないって言ってるのよね。衛君、今車に紙袋ある?」
おろおろと状況を説明する衛に順子は彼が思ってもいないことを聞いた。
「紙袋?」
「そう、どうしてもなければ……鼻をつまんでキスしてくれても良いんだけど。それだと落ち着いた後でヒロに衛君が殴られてもいけないか」
「順子姉ちゃん、俺真面目に聞いてんだよ!? 紙袋ならあるから!!」
さらに続くおかしげな順子の物言いに、衛は思わず言葉を荒げた。
「大真面目よ、私は。紙袋があるんならそれでヒロの鼻と口とを完全に覆って。しばらくしたら落ち着くはずだから。たぶん、寝ちゃうと思うし、そのまま連れて帰ってきて」
それに対して、順子は医師が看護師に手当の方法を説明するかのようにそう返した。
「そんなので大丈夫なの……か?」
「そう、大丈夫よ。それにあの病気じゃないから、心配しなくて良いわ。それより衛君が焦って事故起こさないようにゆっくり帰ってきて、解った?」
「……解った」
 衛は若干納得のいかないまま受話器を置くと、博美の許に戻り、最後のハンバーガーが入った袋を逆さまにしてそれを取り出し、苦しげに肩を上下する彼女の口元に持って行った。
(食べ物の臭いをかがせて、それでどうにかなるってのかな)
そう思いつつそのままそれを続ける。博美の荒い呼吸に合わせて紙袋が膨らんだり縮んだりが繰り返され、やがて彼女の呼吸がだんだんと和らいでいった。
(すげぇ、ホントに治まった……)
順子がこの状況を聞いてふざけたことを言ったりするとは思えなかったが、こんな突拍子もないことがこんなに効くとは衛も思ってはいなかった。
「博美、大丈夫か?」
衛はそう言いながら博美の顔と首に浮き上がっていた脂汗をダッシュボードに置いてあるティッシュで拭いた。
「うん……もうだいじょぶ」
「そっか、シート少し倒すから。寝られるんなら寝ろ」
「ありがと」
博美は衛に礼を言うと、順子が言ったようにすっと眠りに落ちていった。衛は大きく息を吐くと、ハザードを消し、車をふたたび発進させた。

 カーオーディオからは、衛が博美にコクるときにかけようと思っていた曲、「La luce La ciamo’」が流れ始めていた。

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genre : 小説・文学

覚悟―バニシング・ポイント 6

覚悟

  博美の家の前に着いたとき、博美はまだ眠っていた。衛は一足先に降りて、名村家のインターフォンを押した。
「衛です。遅くなりました。」
「今、開けます」
博美の母親のその応対の声を確認して、衛は眠ったままの博美の方のドアを開け、彼女を抱き上げた。だがその振動で裕美が目覚めた。
「あ、えっ? やだ、衛下ろして」
「落とすから暴れんなよ。玄関で下ろしてやっから」
そう言って、衛は博美をもう一度がっちり抱え直した。博美も諦めたのか、衛の首に手を回す。
 やがて、名村家の玄関に博美の家族(両親と順子)が挙って出てきた。
「失礼します」
と前置きして、衛はすっと家の中に入り、玄関先の板の間に博美を下ろした。
「心配かけてすいません」
「君のせいじゃないから、気にしなくて良いよ寺内君」
神妙に頭を下げた衛に、博美の父がフォローする。
「そうそう、ヒロも大好きなblowing the windだからって、興奮しすぎ。どうせ寝てなかったんでしょ。で、私のアドバイスは役に立った? にしても、紙袋があって残念だったね」
そして、続く順子の発言に、衛は首だけで軽く頷いた。対処法を知っていたのだから、博美がこうなったのも初めてではないのだろうし、深刻な事態には発展しないと理解しているのだろうが、からかわれるのは気持ちの良いものではない。
(でも、博美楽しみにしててくれたんだ。ホントこいつ顔に出ないよな、そういうの)

「じゃぁ、俺帰ります」
「本当にありがとう。ほら、博美ちゃんもお礼言いなさい」
「ありがと」
 衛が暇乞いをすると、裕美の母は彼女に衛への礼を促す。裕美は先ほどの「お姫様だっこ」を怒っているのか、衛の眼を見ないまま礼の言葉を述べた。
「今日はちゃんと寝ろよ」
それに対して衛はそう言うと、名村家を後にした。

 しかし、衛が車に乗ろうとすると、家の中から順子が走り出てきた。
「ねぇ、衛君明日暇? ヒロのことで話があるの」
「そろそろ課題をやろうかと思ってるから、予定は入れてないけど」
ヒロのことで話といわれた途端衛は冷たい水をいきなりかけられた気分になったが、何とか平静を装って言葉を紡ぎだす。
「ヒロには聞かせたくないから、衛君ちに行っても良い?」
さらに、順子はそう切り出した。(やっぱり今日のことは俺の車の運転に差し障るから、あの時はああ言っただけで、ホントは……)
 衛は唇をぐっとかみ締めると、力強く順子に頷いた。

バニシング・ポイント7

 翌日、午前中に順子はやってきた。
「徹君は?」
順子は当たりを見回すと、衛に彼の高校生の弟の所在を聞いた。
「今日は学校の友達とプールに行ったよ」
「そう」
順子は安堵の笑みを浮かべた。誰にも聞かれたくない話――覚悟して聞かねばならないと、衛はごくりと唾を呑み込んだ。

「衛君の気持ちが聞きたくて。衛君はヒロが好き?」
「へっ、えっ、何それ、あの……」
しかし、続いて順子はいきなり裕美への気持ちを聞いてきたので、衛は慌てた。
「本気でヒロのこと、考えてくれるんじゃないなら、これ以上ヒロの前に現れないでほしいと思って。言っとくけどあの病気は完治してるわよ」
あの病気でないのなら、また新たな病気があるのか。それなら、なぜ博美ばかりがそんな目に遭わねばならないのだろう……衛はそう思った。
「じゃぁ、昨日のは……」
「過呼吸。浅い呼吸を繰り返すことで、体の中の二酸化炭素の濃度が下がってしまう症状なの。当の本人は息ができないと感じるから、焦って余計に呼吸しなきゃって思ってしまうの。放っておいての15分もすれば落ち着いてくるけど、紙袋なんかで自分が出した二酸化炭素をもう一度吸わせて濃度を上げるほうが回復は早いの。『鼻を摘まんでキスしてくれても良い』って言ったのもふざけて言ったんじゃないのよ。そしたらヒロの心拍数も上がって、積極的に衛君の二酸化炭素取り込んでくれそうだし。そっちに気が向けば息ができないってこと自体を忘れちゃいそうじゃない?」
息ができないことを忘れたら逆に危ないんじゃねぇの? そう疑問に思った衛に、順子はつづけた。
「だって、過呼吸は何か病気があって出るんじゃなくてあの子の心が作り出しているんだもの」
そう言って、順子は深くため息をついた。
「確かに、成人できないって言われ続けて生きてきたあの子の気持は私たちには計り知れないわ。短い人生を悔いなく生きよう。そうやってヒロはずっと頑張ってきた。たぶん、あの子の中では、人生は20年で完結していたんだと思う。
だけど、奇跡は起こった。私たちもそれを信じて祈ってきたし、ヒロ自身もきっとそれを祈ってもいたと思うの。
だけど、実際にその奇跡が自分のものとなった時、心は付いていかなかったの。それで21歳の誕生日前後から、ときどき過呼吸になるようになったの。燃え尽きてしまったって言えば良いのかな。」
「そんなの、良いわけないだろっ!!」
「そうよ、良いわけない。ヒロの人生はまだまだ続くのよ、だから」
「だから?」
「私は衛君にヒロのパートナーになって欲しいの。あなたにずっとヒロが必要だと、言い続けてやってほしいの」
そういうと、順子は寺内家のリビングの床に正座して、
「ヒロは衛君のことが好きなの。お願い、あの子との結婚、考えてみてくれないかしら」
と頭を下げたのだった。

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genre : 小説・文学

バニシング・ポイント8

「ねぇ、ヒロに生きてる実感味合わせてやってほしいの。このままだと、あの子生きているのに心だけ天国にいる気がする」
心だけ天国だなんて大げさなと衛は思ったが、順子はこう続けた。
「ヒロ、こ「ねぇ、ヒロに生きてる実感味合わせてやってほしいの。このままだと、あの子生きているのに心だけ天国にいる気がする」
心だけ天国だなんて大げさなと衛は思ったが、順子はこう続けた。
「ヒロ、この間なんて言ったと思う? 『私は今、与生を生きてる』よ。『余ってるんじゃなくて与えられてるんだ』とは言ってたけど、新成人の言う事じゃないでしょ?」
博美の与生発言はちらっと衛も聞いたことがあった。しかし博美はいかにも楽しそうな口調でそう言ったので、そんなもんかなと特に気にとめてはいなかったのだ。そう思って改めて考えると若さの欠片もない発言だ。

「衛君にその気がないのなら、教団のなかで急いで捜すつもりだから。時間がないの。私、来年大阪に行く予定なの」
 
 順子はつい先日、自分の信仰する教団の牧師との結婚を決めた。

 信者は様々な相談を牧師に持ちかけるが、若い女性には男性である牧師には打ち明けにくいといった問題もあったりする。
 例えば恋の悩みなどはその最たる例だろう。そういう場合、牧師の妻がそれを代わりに聞くことが多い。この場合、若い方が相手の女性信者は心を開いて相談してくれる。
 だから、彼女のいないまま献身してしまった若い牧師は年配の牧師から『結婚していなければ伝道は続かない』と、在学中に見合いを勧められたりすることがその教団では多かった。
 順子たちの場合、教団の若者向け集会で知り合った所謂恋愛結婚の部類なのだが、結婚したい旨を相手の牧師と共に彼女の所属する教会の牧師に告げた時、
『牧師の婚約者となれば、より牧師の同労者として深く実践的な教理を学ぶのが望ましい』
と真っ先に大学に入る事を勧められたのだ。
 もちろん、それに対して双方とも信者である両親の反対はなかった。
 かくして、順子は交際相手の地元でもある大阪のある大学を受けることになった。事情が事情であるし、親の代からの熱心な信者ともなれば、まず不合格になることはないだろう。

「未だ大学生の衛君にこんな事言っても迷惑かも知れない。でも私はヒロに命ある限り“生きて”ほしいの。でなきゃ、あの子が命を与えられた本当の意味がなくなると思うから」

 順子のそんな申し出に衛は即答することはできなかった。
「ゴメン、順子姉ちゃんちょっと考えさせてもらっていいかな」
「うん、即答なんてしてもらおうと思ってないから。じゃぁ、帰るね」

 順子を玄関で見送ると、衛は台所に入り、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出して大きめのコップに注ぎ、一気に呷った。
……コツン……
飲み終わったコップを模造大理石の調理台に置いた時、衛の手はかすかに震えていた。





バニシング・ポイント9

 確かに衛は博美に告白するつもりでいた。しかし、それは順子の言うような結婚を視野に入れているようなものではなかった。いろいろな娘とつきあって、その内一人を選んでいく。別段、誰しもそうしていることだ。
 だが博美の世界は狭い。
 小児病棟の仲間たちの幾人かはもう彼の地に旅立ち、残った者は今も病と向き合っている。そんな中に、ひとり元気になった姿をひけらかすのがつらくなったのかもしれない。今は、定期検診の際に見舞うくらいしか行っていないという。
 また、今年になってやっと卒業した高校も通信制で、ほとんど同世代の友人らしい物はいない。
 一番つきあいらしい物があるのが教会の関係なのだが、入退院を繰り返していた博美はあまり教会にも顔を出してはおらず、青年の集会に顔を出すようになったのはごく最近のことだ。だから、裕美にとって男性と言えば幼なじみの10軒向こうに住む衛ということになるのだ。

 衛が眠れない夜を過ごした後、翌日順子が涙声ででんわをかけてきた。
「衛君、ゴメンね。昨日のことは忘れて」
「何で」
「うん……あの後曳津先生に叱られたの」
いきなりの前言撤回に困惑する衛に順子はそう答えた。曳津先生と言うのは、順子の婚約者曳津信輔の事だ。信輔が牧会する教会の信者に配慮してなのか、順子は結婚が決まっても夫になる信輔の事をそう呼ぶ。
『順子さんはほんまによう祈ってこのこと言うたん? どんなに好き同士でも、御心やなかったら人は結ばれへん。そうなったとき傷つくのは博美ちゃんの方や』って。
そして、衛には言わなかったが、信輔はこう続けたのだ。
『衛君は教会のことどう思てんのん。そら、博美ちゃんは受洗はしてないけど。僕が見てても信仰はしっかりしてる。順子さんは【牛とロバを同じ軛につけ】ようとしてへんか?』
『そんなの、祈って言ったに決まってるでしょ!?それに衛君が一生信仰を持たないって誰が決めたの?』
確かに信仰を同じくしない夫婦は波風が立ったとき脆く崩れやすいのも事実だが、逆に未信者の配偶者を何年も祈って導いた信者の話もあるのも事実だ。
(誰が救われるかなんて人間にはわからないじゃないの!)とまだ若い順子は反発してしまった。
『そらそうやけどさ……ま、また電話するわ』
それに対して、信輔はそっけなっくそう言うと電話を切った。
 そして、冷静になってみて順子は信輔の立場からはそういう意見が出るのは当然だと思った。牧師としては、実るかどうかも分からない救霊より、未信者との結婚で離れていくことの心配をするものだ。
(私は牧師夫人にホントになれるんだろうか)
順子もまた眠れぬ夜を過ごしてとりあえず、前言を撤回しようと衛に電話をしたのだった。
「とにかく忘れて……」
順子はかすれた声で、再びそう言った。

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La luce La ciamo’-バニシング・ポイント10

La luce La ciamo’ 

  日曜日、衛は礼拝後の博美と待ち合わせをし、喫茶店で遅い昼食をとっていた。
「博美、ちゃんと食えよ。おまえ何も食ってないだろ」
衛は、裕美のために無理矢理頼んだサンドイッチを指さして言った。
「だって、お腹空かないんだもん。大丈夫よ、朝ご飯ちゃんと食べてきたし」
「朝? 今何時だと思ってんだよ、もうすぐ2時だぞ」
「でも、お腹空かないんだもん、しょうがないでしょ」
博美は衛の言葉にそういってむくれた。
しかし、衛は最近彼女が自分の前で飲み物以外のものを口にしていないことに気づいていた。その飲み物もコーヒーや紅茶などで、ミルクは入っていることはたまにあるがノンシュガーである。つまり、カロリーになるものをほとんど摂っていないのだ。
それに、博美は低血圧で、入院中は出てくるので仕方なく牛乳に位は手を付ける程度で、家ではまず食べない。朝食を食べたと言ったのは、きっと方便だ。
「とにかく、空いてなくても食え!」
衛はそう言うと、博美の口にサンドイッチを取って突きつけた。なので、彼女はしぶしぶ2、3度口に運んだが、それだけで
『ごちそうさま』と言い、また紅茶の方に手を伸ばした。
(水分ばっか摂ってるから、食えなくなるんだよ)衛はよほど博美の手から紅茶を取り上げようかと思ったが、そうしたところで彼女はサンドイッチに手を伸ばすことはないだろう。

 翌日は連休で、衛たちはデパートで行われる絵画展に行く約束をしていた。
朝、博美を迎えに行くと順子が出てきた。
「衛君、ごめんね。ヒロ楽しみにしてたんだけど、今日は行けないわ」
「何で?」
「朝一で病院に行ったのよ。十二指腸炎だって。潰瘍化してないから入院はしなくて良いみたい。とにかく点滴だけしてもらって帰ってくるけど、今日はそういう訳で止めとくって」
「わかった」
衛は頷くと自分の家へと帰って行った。

 

 

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バニシング.ポイント11

夜、衛は博美に電話をした。
「昨日は、ゴメンな」
「何が?」
いきなり謝る衛に博美は怪訝がる声で返した。
「無理矢理食わせちまったろ」
「そんなの謝らなくていいよ」
「十二指腸炎だって?」
「……うん」
「あのさ、俺で良かったら相談に乗るけど」
「へっ?」
「十二指腸なんだろ? 十二指腸が悪くなるのって神経からくることが多いって聞くから」
「べ、別に悩みなんてないよ」
「そっか、ならいい」
「変な奴」
あっさりと引く衛に、博美はそう言って笑った。
「なぁ、ずっと側にいてくれ、な」
しかし、衛がそう言うと、その笑い声が少し震えた。しかし、そのことを気にもとめていないかのように、衛は歌い始めた。それは彼がコンサートの後コクる時にかけようと思っていた曲、「La luce la ciamo’」だ。

『La luce la ciamo' 君がいなければ僕の世界に色はなかった。
La luce la ciamo’ 照らされて僕は僕になる』

「私、いつまで一緒にいられるか分からないよ」
歌を聴き終わった後、口を開いた博美は涙声だった。
「そんなの誰だって同じさ。俺だって明日事故で死ぬかもしれない」
「そりゃ、そうかもしれないけど」
「そう、人間明日どころか数秒先のことだってわからない。だから変に欲張ったらあっと言う間に命取られるとかお前、今でもそんなことを思っているのか?」
「そこまでのことは思ってないよ。ただ……今までのようにいつでもお迎えに来てくださいって言えなくなってる」
「は!?」
“お迎え”のフレーズに、衛は思わず聞き返す。やっぱ、ずれてるよなと思う。
「私が命を長らえた意味って何だろうって考えたら、怖くなったの。だって意味のあること何も私にはできてないんだもん……」
生真面目すぎるんだよ、博美は! こんなもんいつまでたってもムードなんか出る訳がない、こうなりゃ……
「バカだな、今はできてなくたってこれからややりゃぁいいじゃん。教会のセンセじゃないけどさ、『祈りは聞かれる』んだろ。お前がそれを見つけるまで、神さんはきっとお前を死なせたりしないさ。んでさ、見つけるためにいろんなことしなきゃな。ま、手始めに俺とつきあおう」
衛はそう言って、ボリボリと頭を掻いた。
「どうしてそこに行き着く訳?」
「まぁさ、んと……一人の男を幸せにするのって、結構意味あると思わねぇか」
「そうかもね。それが衛である必要はないけど」
「でも、俺以外にそんな物好きいるのかよ」
「わかんないよ、いるかもね」
「言うよな、お前」
人生に悩んでる割には。
「でも、手っ取り早いし、衛でいいよ」
「俺で良いよって、なんだよ」
「だからそのままの意味!」
「ま、いいか。ほんじゃまつきあうって事で。また明日電話する」
そして、衛は博美の承諾を聞いた途端、電話を切ってしまった。
博美は、切れた電話の音を聞きながら、
「衛が良いんだよ」
と小さな声でつぶやいていた。当然ながらそれは衛の耳には届きはしないのだが。









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同じ軛(くびき)-バニシング・ポイント12

 翌春、順子は信輔の待つ大阪の大学へと旅立っていった。

 それから2年、順子は神学部の基礎コースを終えた。信輔とは在学中に籍を入れ、卒業と同時に夫と共に任地に赴いた。年が新たにされる頃には、第一子も産まれる予定だ。
 衛は地元企業に就職したという。博美も父の知り合いの会社にアルバイトとして働きだした。
 博美は新たな世界が本当に面白いらしく、電話をする度喜々としてその様子を語るのだが、博美が心底楽しんでいるその状況は、普通なら当たり前のことで、同じことの繰り返しにうんざりとしている者も多い事柄だ。
 順子は前向きに生き始めた妹の事を喜ぶと共に、そんなささやかなことにまで喜びを感じる妹を不憫に思っていた。

 土曜の昼下がり、順子読み聞かせの会をしていたときだった。読み聞かせの会というのは、小学校低学年までの児童を対象に、信仰をベースにした良書を信徒が読み聞かせる集会だ。
「順子先生、電話!」
集会の手伝いをしてくれている高校生がそう言って順子を呼んだ。
「寺内さんって人から」
衛くん? いきなりなんだろう。
「急いでるかどうか聞いてちょうだい。で、急いでなければ集会が終わったら電話するからって伝えて」
「はーい」
 その後、応対した高校生から別に急ぎのようではないから夜にでも再度かけ直すとの伝言を受けたものの、順子はその内容が気になってしかたがなかった。
 順子は夕食を終えてすぐ、自分から電話を入れた。土曜の日は信輔は翌日のメッセージに向け、夕食後は準備したものをもう一度見直し黙想するので、まだ二人きりの今、順子には逆に手空きの時間でもあった。

「衛君、久しぶり。電話くれたんだってね」
「あ、順子姉ちゃん。俺から電話つもりだったのに。わざわざ電話くれてありがとう」
「で、何?」
「あ、曳津先生の暇な時間を教えて欲しくてさ」
「何だ、信輔先生に用事だったの?」
順子は結婚直前まで信輔を曳津先生と呼んでいたが、自分も曳津姓になってしまった今、そう呼ぶ訳にもいかず、それでも名前に先生をつけて呼んでいるのだ。
「ああ」
「信輔先生なら、月曜日を一応お休みにしているから。衛君は何時頃仕事から帰ってくるの? 電話してもらうわ」
「いいよ、こっちが聞きたくてかけたんだし、ちょっと家ではかけにくいしさ、先生が家にいるんだったら、仕事上がりに公衆電話から電話するから」
「家では電話しにくいって……」
何かトラブルにでも巻き込まれているのかしら、順子は不安になった。
「あ、そんなややこしいことじゃないから! じゃぁ、月曜ってことで。先生に伝えといて」
だが、順子が家では電話できないと言われて心配そうな声を出した途端、衛は慌てて電話を切ってしまった。
 順子は一抹の不安を抱えたまま、とりあえず月曜の夕方衛から電話があるらしいとだけ告げたのだった。

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genre : 小説・文学

バニシング・ポイント 13

「へぇ、やっと折れたんや」
 月曜日――信輔は衛からかかってきた電話を受けて口角をあげた。よかった、やはり悪い知らせではなかったのだと順子は側で見ていてホッと胸をなで下ろしたのだが、その信輔の眉間に徐々にしわが寄り始めた。
「そら、博美ちゃんは寺内君のお家のこともようわかってるんやろうから」
えっ、ヒロ……
「中野先生は喜ぶと思うよ。せやから、気ぃつこてんのちゃうかなぁ。衛君長男やしな。とにかく、受けんでもカウンセリングだけでも大丈夫やから……うん、僕で良かったらまた相談に乗るし。うん、そんなら一番いい解決法が示されるように僕もお祈りしとくわ」
そう言って信輔は電話を切った。

「寺内君受洗したいって」
電話を切った後、信輔は彼の顔を食い入るようにのぞき込んでいる妻にそう言った。
「衛君、決心したの!?」
衛が洗礼を受けると聞いて順子は色めきたった。
「けど、博美ちゃんがそれを反対してるらしい」
「ヒロが? どうして」
「たぶんやけど、博美ちゃんは寺内君が自分と結婚するためにそうせんなあかんと思てんねんやと思てるんちゃうかな」
「結婚するためにって」
「博美ちゃん、寺内君のプロポーズ受けたらしいよ」
「ホント!」
「で、教会で結婚式しようと思たら、受洗してんなあかんのちゃうのって」
 確かに順子たちの母教会では、信者同士の結婚が基本で、片方が会員ではない場合、教会堂の使用を認めない。
 しかし、牧師はそうして頑なに敷居を上げて未信者との結婚を否定しているわけではない。逆にそれは大いなる伝道の機会であるのも理解している。だからそれはあくまでも基本で、未信者のパートナーは、求道者として教理を理解する為の通称『結婚カウンセリング』を数回受けて信者に準ずるものとして結婚式に臨む。そんなことは親の代からの信者である博美には充分わかっているはずのことだ。
「私から一度博美になんで反対してるのか聞いてみようか?」
順子の提案に信輔は頷くと、、
「まだ、お義父さんたちには言うてないかもしれんから、それとなくな」
と返した。


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バニシング・ポイント 14

 翌日、順子は博美に電話を入れた。信輔にはそれとなくと言われたが、博美の性格を考えるとどう考えてもストレートに話を切り出さないとそこには行き着きそうにない。
「昨日、衛君から電話もらったのよ」
「衛、お姉ちゃんに電話したの?」
「ううん、私じゃなくて信輔先生に。受洗するにはどうすればいいかって聞いてたわ」
順子の耳に蚊の鳴くような声で博美の
「そう……」
という返事が聞こえる。
「博美が止めてるんだって? 衛君の受洗」
「うん……」
「嬉しくないの? それとも衛君のご両親が反対してるの?」
「ううん、それはないと思う」
「まさか、中野先生が反対してる?」
「中野先生には言ってないと思う」
「なら何で」
順子には反対する理由がわからない。
「だって、衛メッセージの時、いつも寝てるんだよ。祈ってるのも聞いた事ないし。それなのに、いきなり『洗礼受けたい』って言い出すんだよ。きっと、私が『同じくびきを負うものじゃなきゃ、結婚なんて長続きしない』って言ったからだよ」
そうか、ヒロは自分と結婚するために衛君がムリをして教会に通っているとそう解釈しているわけか。
「でも、救われるきっかけはどんなところにあるか分からないわよ。ヒロが決めてかかるのも良くないと思うけどな」
「うん……」
そう言っても博美の返事は果々しくない。
「まぁさ、導きならどうあってもいつかは救われると思うから、今は様子見でもいいかもね」
 順子は結局この頑固な妹の性格を考えて押しすぎることを避けた。だが、後々順子はこのときのことを夢に見るほど後悔することになる。

 衛と博美はこの約一年後、24歳で結婚した。

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同じ重さの……-バニシング・ポイント 15

 同じ重さの……

 衛と博美が結婚して8ヶ月が経った。
「テラさん、今日飲みに行かね?」
そう言ったのは、堀木俊樹だ。
「いや、止めとくよ。博美が待ってる」
「最近、付き合い悪いっすね」
「俊樹とここそ子供生まれたんだろ。お前こそ、早く帰らなくていいのか」
「いいんですよ、俺なんかいなくたって」
衛の一言に、俊樹はぶすっとふくれっ面で答えた。高卒でこの会社に入った彼は、つい最近中学の時の同級生、智佳子と結婚した。
「どうせ、愛花は親父たちのオモチャなんすから。風呂から抱っこまで俺の入る隙なんてないんです」
「何だそれ」
「デキ婚なんてカッコ悪くて親戚にも顔向けできないとか言って反対しときながら、愛花が生まれたころっと宗旨替えしてベタ甘なんすから。愛花はねぇ、俺智佳ちゃんとの娘ですよ。親父と言えど、男に触らせる筋合いはないっすよ」


-*-*-*-


「な、親バカだというのか、何て言うのか……結局俊樹だって同じ穴のムジナだと思わないか」
帰宅後、衛は笑いながら博美にその話をした。
「俺もさ、子供が生まれたらあんな風になっちまうのかな。ま、博美に似た女の子なら絶対にそうなるかもな」
妻の手料理に舌鼓を打ちながら上機嫌に話す衛には、差し出したお代わりの茶碗にご飯をつぎに行った妻がこっそりと涙を拭いていたのに気付かなかった。

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バニシング・ポイント 16

 それから2ヶ月後のことである。職場で、衛のデスクの内線電話がなった。
「寺内さん? 鹿島様という方からお電話です」
総務の女子社員がそう告げた。しかし今、衛には鹿島という顧客はいなかった。誰かが紹介してくれたのだろうか、首を傾げながら電話に出る。
「お電話ありがとうございます。営業部、寺内です」
「あ、寺内衛さんですか。こちら、××大学病院の鹿島と申します」
そして、衛は××大学病院と聞いて一瞬にして血の気が引いた。博美があの病気で入院していた病院であり、今日は再発のための定期検診に行っていたからだった。
「実は、博美ちゃんの事で、一つだけ申し上げておかないといけないことがありまして……」
「今からそちらに伺っていいですか!」
つづけて用件を話そうとした鹿島の言葉を制して衛はそう言った。たぶん再発したのだ。そんな宣告を職場でなんか聞きたくはない。
「今からですか? 今からはちょっとムリですが、今日は六時頃には仕事は終わります。その後なら……」
「分かりました。6時にそちらに伺います」
「では、1階のコーヒーラウンジで待ってます」

 それからは一日まるで仕事にはならなかった。衛は定時で仕事を終え、慌てて会社を出た。
 早めにコーヒーラウンジに着いてから約15分後、5分遅れで鹿島はそこにやってきた。
「すいません、わざわざ時間取っていただいて」
「構いません。僕もこの事は医師としてではなく、インターンの頃から知っている博美ちゃんの古い友人としてあなたに言っておきたかっただけですから」
鹿島はそう前置きしてから、
「それで、今日の検査の事ですが、再発の兆候はありませんでした」
衛はとりあえず再発していないと言われて安堵した。
「ですが、一つだけ問題があります」
何か別の病気にでもなったのだろうか。だが、鹿島の答えは違っていた。
「博美ちゃんは妊娠しています」
妻の担当医はにこりともせず、衛にそう言ったのだった。

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バニシング・ポイント 17

「それがどうして問題なんですか!」
妊娠報告だというのに、問題だという鹿島の言葉に衛は声を荒げた。
「本当なら私だって素直におめでとうと言ってあげたい。でも、無事に生まれてもそうでなくても、子供はこれっきりにしていただきたい。私はそれだけをあなたに言いたかったんです」
それに対して鹿島はそう答えた。
「お腹の子供に何か問題があるんですか?」
「それは……症例自体が少ないので、まだ現時点では何とも言えません。ただ」
「ただ?」
「ただ、妊娠出産は長丁場。体質が全く変化してしまうこともある大変な作業です。これが引き金になって再発するケースもあり得ます。その場合、投薬などを考えると、妊娠の継続はまず難しい。でも、博美ちゃんの性格ではそうなった場合でも、頑として子供の命を優先するように言うでしょう。大抵の場合、女性はそう主張する方が多いです。実際、今日も私このことを持ち出したら、『私の命もこの子の命も同じ命でしょ? 命の重さに変わりはないはずです』と睨まれてしまいましたよ。
そうは言っても私にとっては博美ちゃんは彼女が12歳の時から共に闘った仲間だ。これから生まれてくる命を蔑ろにするつもりはありません。ですが、私は彼女を失いたくない」
鹿島はそう言って苦笑した。
「だから、博美ちゃんにはあなたに避妊してもらうように前々から言ってあったんですが、そのご様子ではやはりあなたにはそのことは言ってなかったようですね。そう思いましたんで、今日はあなたに直接お話ししたほうがと思いましてね」
衛は鹿島の言葉に黙って頷いた。

「これからは担当は産婦人科に移行しますが、私もできる限り協力はするつもりでいます。母子共に無事で生まれてくるように。ただ、その後は避妊を心がけてください、お願いします」
「仰ることは解りました。でも妊娠を避けるのなら、その……」
衛も普段、そういった話を仲間内でしていないこともないのだが、さすがに自分よりも一回りも年上の鹿島に直接的な表現で言うことは憚られた。
「ああ、性行為のことを心配しておられるんですか。性行為自体はよほど激しい一晩中とか言うのならともかく、一過性のものですから十分大丈夫ですよ」
鹿島はそれに対して無表情でそう返した。

 そして、話し終えた衛は鹿島と別れて自宅へと向かった。その道中、衛の心は重かった。博美はそれこ嬉々として自分に妊娠の事実を伝えるだろう。その笑顔を見るのが今、無性に怖かった。

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愛しているからこそ-バニシング・ポイント18

 愛しているからこそ

子供は博美自身が体調に気を配ったこともあったが、さしたることもなく出産を迎えた。
 ただ、全く順調な訳でもなかった。博美の血圧は陣痛を迎えてからいきなりあがり始め、出産直前には167になった。そして、帝王切開も視野に入れようとした矢先、ほどなく博美は女の子ー明日美を産んだ。
「とにかく無事に生まれて良かった。けれど、出産直前の血圧の急激な上昇。これは、明らかに妊娠中毒症の兆候だよ。妊娠中毒症は、第一子より第二子、第三子と、出産を経るほど重くなる傾向があるから、いいね」
鹿島は、博美にそう言って今一度念を押した。

 そして、明日美が生まれて一年近くの日が経とうとしていた。博美は出産後から未だ衛の夜の誘いを断り続けている。
 衛には明日美に手がかかるからそんな気にはなれないと言っているが、彼女の本心は別のところにあった。
 博美は出産後、重度の妊娠中毒症のもたらす弊害を調べた。出産した直後、けろっとしてしまう場合も多いが、中には重篤な症状に陥って、植物状態や死に至るケースもある。
 特に、最初に妊娠中毒症に罹った場合、その子供を出産後間を置かないで次の子を妊娠すると、重症化する場合が多いという。
 もちろん、出産直前の血圧上昇は衛も知っていて、既に鹿島は衛にも釘を刺していたから、夫は避妊具を用意して待っていることも知っている。鹿島に頼めば経口避妊薬も処方してくれるだろう。
 だが、そうして万全を期して夫婦生活が、『快楽だけの性』のような気がして受け入れられないのだ。『夫婦のコミュニケーション』として重要なのかもしれないが、肉の欲に駆られているような気がする。『生めよ増えよ地に満ちよ』の聖書の言葉に逆らっているように思える。最後までいかず外に出してしまったために、神様の罰を受ける者がいた架所を思い出す。
 そして、そのことを薄々感づいているのかもしれない衛が自分に対して、
「いいよ、別にエッチがしたくて博美と結婚した訳じゃねぇから」
とささやく言葉も、博美の心をチクチクと刺し続けたのだった。


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バニシング・ポイント 19

 夫婦のつながりは性行為だけではない、それは博美にも解っている。でも、衛が選んだのはなぜ自分なのだろう。もっと他に相応しい人がいるはずだと思ってしまう。
 そして、博美の口からは明日美のその日の様子以外の言葉はなくなった。衛も博美に無理には話しかけなくなっていった。帰宅時間は徐々に遅くなり、新婚時代には決してしなかった休日出勤もするようになり、博美は明日美と二人きりで過ごすことが多くなった。

「ほら、テラさん、家に着きましたよ」
忘年会の日、衛は俊樹ともう一人北村冴子という女性に支えられて帰宅した。
「すいません、わざわざありがとうございます」
「いえいえ、テラさんにはいつもお世話になってるっすから」
そう返す俊樹の呂律も些かあやしい状態だ。
「堀木さん、大丈夫ですか?」
博美が心配してそう尋ねると、
「俺? 俺は大丈夫っすよ」
俊樹は博美の言葉に敬礼して答えた。一方冴子は
「私がこれから送りますから。では寺内さん、失礼します」
と、衛ににこやかにほほえんだ後、ちらりと博美を見た。衛に向けた視線とは対照的な刺すようなもので、その視線に博美はうっすらと寒気すら感じた。
 
 それから寺内家に、博美がとると無言で切れてしまう電話がかかってくるようになった。衛が家にいるときにはかかってこないので、博美が怯えているのが衛には今ひとつ分からない。
「俺がいる時にかかってきたら、間髪入れずがつんと言ってやるから」
と言って笑ってやることしかできない。

 そんなある休日、衛たちは近くのショッピングモールに買い物に出かけた。久しぶりの買い出で心なしかいつもより会話も弾む。
 しかし、そんな衛の表情がある一点を見て固まった。衛は、
「なぁ、ちょっと用ができたから、そこの〇×ドーナツで待っててくれるか。すぐ戻ってくる」
と言うと博美の返事も聞かずにはしっていった。博美は追いかけたい衝動に駆られたが、明日美のベビーカーを押していてはそうもいかず、仕方なくドーナツ屋に向かった。程なくして衛も合流したが、何か落ち着かず、心ここにあらずだった。

 そして、それから三日経った日の午後、衛のいない寺内家の電話が鳴った。
「はい、寺内です」
「奥様ですか」
「どちら様でしょうか」
何か宣伝の類だろう、そう思いながら博美は相手の名前を聞いた。
「私、北村冴子と申します」
「ああ、主人の会社の? 主人はまだ会社ですけど」
今日は普通に朝出勤して行ったのだ。博美は首を傾げながらそう答えた。
「今日は奥様にお電話いたしました」
「私に? 何かご用でしょうか」
ますます訳が分からなくなっている博美に、冴子はいきなりこう切り出した。
「奥様、ご主人と……衛さんと別れていただけませんか?」
と……

 

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バニシング・ポイント 20

「それ、どういうことですか!?」
「それは、自分が一番お解りなんじゃないんですか。今のままじゃ、同居人と変わらないって」
「何でそれを……」
「彼の腕の中で聞いたと言ったら?」
震えながら聞いた博美に冴子は笑みを浮かべているのが判る口調でそう返した。
「衛の腕の中で?」
「そうよ。私があなたにヤキモチをやいたら『焼くな、博美とは子供が生まれてから一回もやってない』ってはっきり言ったわ。でも、妊娠中だってご無沙汰だったんでしょ? 健全な男がそれで保つと思ってるの?」
その後も冴子は少し話を続けたが、博美はもう何も耳には入ってこなかった。『健全な男がそれで保つと思ってるの?』という言葉が耳に纏わりついて離れなかったのだ。


―*―*―*―*

 その日、衛は帰宅したとき、自宅に灯りが点っていないことに気付いた。実家にでも行ったんだろうか……そう思っていると、近くに住む糟屋という年輩の女性が声をかけてきた。
「明日美ちゃん調子悪いの?」
「朝は元気だったんですけどね」
糟屋の質問に衛は首を傾げて答えた。
「夕方ものすごく泣いてたからもんだから。でも、子供なんてそんなもんよ。朝元気でも急にぐずりだしたと思ったら熱だって事多いから」
「そうですか。ありがとうございます」
そうか、明日美の調子が悪いのなら病院にでも連れて行ったのかもしれないな。そう思いながら玄関の鍵を開け、家の中に入って、部屋の電気を点けて一瞬にして血の気が引いた。

衛が見たもの―それは、明日美が部屋の隅でうつ伏せになっており、少し離れたところで、博美が真っ暗な中呆然と座り込んでいるというものだった。

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過ち-バニシング・ポイント 21

過ち

「明日美!!」
衛はまず、うつ伏せになっている明日美を抱き起こした。涙と鼻水でぐちゃぐちゃではあるがすやすやと寝息をたてている。熱もないし、大泣きしたまま眠ってしまっただけのようだ。衛は明日美を抱いたまま今度は博美に近づいた。
「博美?」
だが、博美はそんな衛をまるで化け物でも見るかのように、瞳孔を広げて震えて後ずさりしたのである。衛は明日美を抱いていたので、明日美が何をしても泣きやまないので、精神的にくたびれてしまったのだろうと解釈した。
「ん? どうした?」
だが、そう言って衛が微笑みながら博美の頭を撫でようとすると博美は弾かれたように彼から飛び退いた。
「さ、触らないで!」
そして今度は強引に明日美を衛の手から取り上げると、その胸に抱いた。急に揺すぶられたことで目覚めた明日美が「ふぇ」
と軽く泣き声を上げる。
「明日美が起きるだろ」
衛が窘めると、博美は明日美をさらにきつく抱きしめて彼を睨んだ。
「ホントにどうしたってんだ。説明しろよ」
「私たちの事を……」
「俺たちのことがどうした?」
「今日、北村さんから電話がかかってきたの。私に衛と別れてほしいって」
「あのバカ、何言ってんだ!」
博美が昼間の電話のことを切り出すと、衛は舌打ちしてそう言った。
「バカじゃないわよ。それより、私と衛がセックスレスだってことを、何で北村さんが知ってるの!?」
「冴子、お前にそんなことまで言ったのか?」
「私たち夫婦のことをどうして他人のあの人が知ってるのよ! それに、冴子って何? あの人とどういう関係なの!?」
 衛は博美にまくし立てられて、しばらく反論しようと口をパクパクさせながら拳をプルプルと震わせていたが、やがて、意を決したように、唇をかみしめると、膝を折り、博美の前に土下座して、
「すまん、許してくれ! ちょっと魔が差した」
と、額を床に擦りつけたのだった。

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人の思いに勝る思い-バニシング・ポイント 22

人の思いに勝る思い

「でも、本気じゃないんだ。冴子に迫られてつい……」
続いて衛は必死で言い訳をしていたが、それは何の効果もなかった。その場で博美は明日美を連れて出ていき、翌日実家に迎えに行っても、信仰深い両親は浮気をした男を大事な娘と会わせようとはしなかった。
 それから果々しい話し合いもなく、程なくして離婚届けが送られてきた。衛は明日美の養育費を出す代わりに、一月に一度彼女と会うことだけを要求し、博美もそれに応じたので、寺内衛・博美夫妻の離婚が正式に成立した。
 そのことを事後報告で博美の電話で聞かされたとき、順子は落ち込んだ。
「きっと、私があんな事を言ったからだわ。牛とロバを同じくびきにつないじゃったのよ」
と、かつての日、衛に妹を頼むと言ったことを悔やんだ。
自分が衛に結婚など仄めかさなければ、衛は博美を意識してみることもなく、結婚には至らなかったに違いない。
 だが、それを聞いた信輔が怒りだした。
「そんなん、順子さんのせいちゃう。誘惑に負けたんは衛君や。子供の頃からの付き合いやねんから、博美ちゃんの性格を考えたらほんの浮気心が通用するはずないことくらいわかってるはずや」
そう言って、信輔はやにわに衛に電話をして意見し始めたが、途中から打って変わって聞く側に回ってしまい、横にいる順子には詳細がつかめない。
「そうか、君がそんでええっちゅうねんやったらしゃーないけど、ほんまにそれでええのんか?」
ただ、信輔が眉に皺を寄せたままなので、やはり復縁は難しいのだろう。
「ほんならな、この電話は衛君がそのまま持っていくんか? もし変わるんやったら、それも知らせてくれる? 
そしたら一番御心に叶うようにお祈りしてるわ」
信輔はそう言って電話を切った。
「衛君はどう言ってるの?」
「うん? 自分の責任やから離婚するて」
「そんな、ヒロたちには明日美ちゃんもいるのよ! 信輔先生が悔い改めに持っていって和解とかできないの!?」
「まぁ、順子さんの気持ちは解るけど、お互いの離婚の意志、固そうや。それに、『人の思いに勝る神の御思い』をかんじるんや、僕は」
「えっ?」
「僕たちにはまだそれがどんな恵みになって返ってくるかわからへんけど、博美ちゃんと衛君にはこれは必要なことなんや、僕は何かそう思う。中野先生もよう言うてはるやろ、『人生に偶然はありません。すべて神様のご計画の中にあるのです』ってさ」
確かにそれは恩師の十八番で、幼い頃から繰り返し聞かされたフレーズではあったが、妹夫婦の離婚がどう転がれば恵みに発展するのか見当もつかない。
「だから、僕たちは祈ろ。衛君たちの選択がどんなに先になっても大いなる恵みの実になって返ってくるように」
 この結果は大いに不満だが、それでも不満だという事も含めて自分たちには祈る以外に知恵も力もない。順子は信輔の祈りの言葉に合わせて手を組んで頭を垂れた。

本心-バニシング・ポイント23

 本心

離婚後、博美は名村家に戻った。博美は衛も生家に戻ってきて再々顔を合わせるのではないかと、内心ひやひやしていたのだが、衛は家族で住んでいた家を引き払って会社の近くに一人住まいを始めた。
 別に衛の顔をもう二度と見たくないというように愛想尽かしをしているわけではない。寧ろその逆だった。博美はたった一度の過ちを許せなかった訳ではなく、衛が新しい人生を冴子と歩めるように自分から手を離したのだ。
自分ではこれからも衛を男として満足させてやることはできない。送ってきたあの時、射るように自分を見、懸命に自分のものにしようとした彼女なら、きっと彼をもりたててくれるはずだ。きっとすぐに彼には次の子供たちが生まれるだろう。寂しいが私には明日美がいる。
 ただ、実家に住む事によって冴子とニアミスすることは嫌だった。どんな顔をして彼女に挨拶したらいいか判らない。
 だから、実家から離れて住んでくれたのは正直ありがたかった。
 そして、衛は明日美との“デート”の時だけ、衛の実家に連れていった明日美を迎えに来る。
 接点はただ、その月に一度の親子のふれあいの話を明日美の口から聞くだけ。それと、離婚後も明日美のためにと戻さなかった寺内の名字と……それは、本当は明日美のためではなかった。結婚後家にいた博美と保育所にさえ通っていない明日美には、名村に改称したところで何ら問題はなかったのだが、寺内という名を捨てたとたん、血のつながりのある明日美はともかく、自分はもう衛とのつながりは何もかも切れてしまう、それが博美には耐えられなかったのだ。
 離婚後、しばらくして博美は結婚前に勤めていた会社に復職した。衛からは、明日美の養育費だと二人実家で生活するには十分すぎる金額が送られてくる。博美にはそれが心苦しかった。できるなら衛の新しい家庭にそれを使ってほしい。突き返すためには親のすねをかじっている訳にはいかない。
 やがて、養育費の半額を送り返した博美に、衛から電話がかかってきた。
「これは、一体何のつもりだ!」
「私だって仕事始めたし、もうこんなに要らないから、自分たちのために使って」
「余計な気を遣うな!!」
そう言いかけると、衛は博美に最後まで言わせないままそう言って怒鳴った。
「だって……」
「ちゃんと自分の生活できる分は取ってその上で送ってるんだから、心配するな。残ったら貯めとけ。これから明日美の学校に、いくらかかるかわかんないだろっ。母親なら……」
と、今度は結婚していたときさながらに、夫風を吹かせて博美を責め始める。
「もう良いわよ! じゃぁ遠慮なくもらっとくわ」
せっかく衛のことを心配しているのに、母親失格のように言われたのではたまらない。博美はプリプリしながら自分から電話を切った。

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再会-バニシング・ポイント 24

 再会

衛と博美が離婚して10年あまり、明日美が中学に行くようになると、小学生までのように父親に会うのをあまり喜ばなくなった。毎月だった”デート”がほぼ隔月くらいになって、博美はその度に衛に電話で詫びを入れるようになった。
 とは言っても、博美は事務的に明日美が行かないことを伝えるだけだったし、衛も
「わかった、いつまでも親父が良い方がおかしいからな」
と言って電話を切るだけだ。
 それでもまだ、中学時代は文句を言いながら明日美は父親と会っていたのだが、高校には行った後すぐ、彼女はそれを全面拒否するようになった。
「じゃぁさ、お母さんも今のお父さんに会ってごらんよ、あたしの拒否る気持ち絶対に分かるからさ」
せっかくの衛の楽しみを取り上げるようになると、つい声を荒げた博美に明日美はそう言い返した。
 今の衛がどう変わったというのだろう。子供の反抗期だというのを抜きにしても、それは少し引っかかる発言だった。
 博美はそれこそ離婚後初めて、衛と会うことにした。実家付近でちらっと見かけたことはある。それも明日美が小学校4年の頃だ。
 待ち合わせはターミナル駅。最近では明日美はそのまま名古屋にまで足を延ばして、ちゃっかりとバッグや服などを買わせているらしい。
 衛はまだ来ていないようだ。どうせ会うというのに、それが少しでものばされるとホッとする。
 しかし、次の瞬間明日美は大きな声を上げて
「あ、お父さん、こっちこっち!!」
と声をかけた。
 その声に反応して、やってきたのはー

 博美の見知らぬ人だった。

バニシング・ポイント 25

「お、今日は珍しいな、母さんまで一緒か」
そう言って近づいてきた男は、よく見ると衛に似ているといえばそんな気もする。だが、年を重ねた事以上に違っているのは、博美が記憶している彼よりも横幅が2倍近くもあることだった。
「そうだよ、お母さんからも少し言ってよ。もう、一緒に歩けないよ」
「父さん、そんな妙なカッコウしてるか?」
「そうじゃなくて、そのお腹! 何とかしてよ!!」
「何とかしてよって言われてもなぁ、こればっかりは今すぐどうとかできるもんじゃないぞ」
そんな親子のやりとりを目を瞑って聞いていると、幾分くぐもってはいるものの、やはり衛の声に間違いない。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。そんなことを考えながら目を閉じたまま怪訝な顔をしていた博美に、「どうした、博美。気分でも悪いか?」
と、衛と思しき人物の心配げな声が聞こえる。
「ううん、別に」
「そうか、それなら良いけど。で、どこに行く?」
「うーん、やっぱ名駅。こっちよりアクセとかやっぱかわいいんだもん」
「博美は、それで良いのか?」
「お母さんはあたしの付き添いだよ。いいじゃん、あたしの行きたいところで」
「でも、折角久しぶりに会ったんだから、母さんの意見も聞いてだな」
「衛、良い訳ないじゃない!」
他愛のない親子の会話をしていた衛と明日美は、何の脈略もなくいきなり声を荒げた博美に、一旦互いの顔を見合わせ、それからきょとんとした面持ちで自身の元妻や母を見る。
「ねぇ、あの人は一体どうしてるの!」
「あの人って誰だ?」
「あの人はあの人よ!!」
博美の言うあの人とはもちろん冴子のことだ。しかし、衛はそれを意に介さないばかりか、
「おまえ本当に大丈夫か、震えてるぞ」
という始末だ。これが怒りに震えずにいられるだろうか。
「体調が悪いんだったら、もう今日は帰るか」
「えーっ、帰っちゃうの?バッグ買ってほしかったんだけどな」
博美の体調を心配する衛に、明日美は口をとがらせてそう返した。一緒に歩きたくないと言う割にはちゃっかりとおねだりしているところが今時の高校生というところだろうか。すると博美は何やら決心したように、
「帰る、ううん行くわ」
と言って頷いた。
「帰る? 行く? どっちなんだ、それ」
「だから、今から衛の家に行く」
博美の発言に首を傾げた衛に、彼女は思い詰めたようにそう答えた。

衛の家へ-バニシング・ポイント 26

衛の家へ

「ま、ここからなら俺のアパートの方が近いけどさ。そんなに辛いのなら、日を改めても良かったんだぞ。明日美も母さんの調子が悪いことくらい気付けよ」
衛には病気だった頃の博美の記憶が鮮明にあるので、今回も体調不良だと信じて疑わない。それならば博美はそういうことにして、冴子のところに乗り込み、衛がここまで太ってしまった事の責任を問い質さないことにはいられなくなっていた。
  それを知ってか知らずか、明日美は父親の今の住居には行かないといい、一人で自宅に帰って行った。なので、博美は衛と一緒に彼の住まいに足を向けた。
 衛は途中のコンビニでペットボトルのお茶を買い込んだ。冴子はお茶さえ沸かそうとはしないのか、彼らの生活にますます不信感が募っていく。
「ここだよ。あんまりきれいじゃないけど。とりあえず俺のベッドで横になれ」
ついた先は、衛の会社からはほど近いが、小さな安アパートといった風情のところだった。二人で暮らせないことはないだろうが、どう考えても女性が好みそうな外観ではない。そして、衛に導かれて中に入った博美は言葉を失った。そこには、スーツや普段着のスウェットを除けば、デスクトップのパソコンが一台とベッドしかなかったのだ。元から散らかす方ではなかったが、これはそれどころではなく、もの自体が存在していないといった方が正しい。
「ねぇ、ホントに彼女はどうしたの?」
「さっきから彼女彼女って言ってるけど、誰のことだ? さっぱりわからない」
思わず衛の服の裾を引っ張って尋ねた博美に、衛は首をひねりながらそう返す。
「彼女は、彼女。北村さんよ」
「冴子? 冴子がどうした」
「一緒に暮らしてるんじゃないの?」
博美がそう言うと、衛は吹き出した。
「あいつとは酒の上での出来心だ。最初から一緒になる気はないよ」
「ウソ!!」
「ウソじゃないよ。まぁ、そんな出来心の浮気だって、おまえには許せる話じゃなかっただろうから。それが分かっていたから、離婚に応じたんだ。だけど今更冴子の名前を聞くとは思わなかったよ」
「冴子さんは本気だったわ」
そう、あんな電話をかけてくるほどに。
「そうかもな。けど、俺にはその気はなかったよ」
そう言った衛は無表情だった。くしゃっと顔を歪めた博美の頭を衛は優しくたたくように撫でて、
「そんな顔するな。冴子も今じゃ、別の男の嫁だ。俺が責任取るより何倍も幸せになってるよ。それより、ホントに横になれ。落ち着いたら車で家まで送ってやるから。ほら」
と言いながら、ベッドに博美を押し倒す。博美の体が強ばった。
「警戒すんな、何にもしねぇよ。第一、今の俺は絶世の美女だって勃たない」
「ウソ!!」
「今日はお前、そればっかだな。ホントだって。ほらこれ」
衛はそう言いながら部屋の隅にある小さなプラスチックの抽斗から紙を取り出して博美に渡した。それは血液検査の用紙だった。そして、その用紙のアスタリスクがついている項目を見て博美は思わず息をのんだ。
 通常110までが正常範囲の血糖値が257。5.8%までが正常範囲のヘモグロビンA-1Cが倍の10.3%。具体的にどうおかしいのかは解らないが、放っておいて良い数値でないことだけはなんとなく解る。
「おい、何で泣いてんだ? ま、確かに誉められた数字じゃないけど、泣くことでもないだろ」
 離れて暮らしたこの15年は全くの無駄だったのだろうか。私はただ、衛が幸せになってほしい、それだけだったのに……
 衛が当惑する中、博美は血液検査の結果を握りしめて、ぼろぼろと涙を流し続けた。




注:ヘモグロビンA-1Cとは、長期スパンで見る血糖値のことです。空腹時血糖は検査日前の状態でかなり違ってくるので、こちらを重要視するお医者様が多いようです。








バニシング・ポイント 27

 何だか夢を見ているようだった。
 離婚後初めて顔を合わせた元妻は、会ったとたんいきなり自分の部屋に行くと言い、自分の現在の状況を見て号泣すると、衛に近所のスーパーに連れて行けと言った。
「スーパー?」
「食材を買うのよ」
「腹減ったのか? じゃぁ、食いにいこう。体の調子悪いんだろ」
と言った衛に、
「ダメよ、それじゃぁ。ちゃんと作ってあげる。それに、言っとくけど私、明日美を産んでからはものすごく元気よ。ただ、冴子さんに会いたかっただけだから」
と譲らず、戸惑う彼をスーパーまで案内させた。そして、野菜を中心にどんどんとかごに入れていく。
「おいおい、そんなに買って一体なにを作るんだよ。第一それじゃぁ、いくら俺でも食いきれない」
「この量を一回で食べるつもりなの!? 呆れた、当然当座の分よ」
「当座?」
「でも、あの冷蔵庫じゃたくさんは入らないわね。ビールを放り出したとしてもいくらも入らないわ。それに、フリージングしておくにも、冷凍庫もあの容量じゃね」
と、眉に皺を寄せてぶつぶつと文句を言い出す。
「いいよ、別に外食するから」
博美はそう言った衛を睨み上げて、
「ダメ、あんなもの見せられて黙って看過ごす事なんてできると思う?」
あんなもの? ああ、血液検査のことかと衛は思った。
 
 そして、家に戻って約15年ぶりに博美の手料理を口にした。
「うまい、やっぱうまいよ。博美は料理の天才だよ」
「お世辞はいいわよ、元女房にお世辞言ったって、何もでてこないわよ」
「お世辞なんかじゃないから」
もちろん、衛は復縁を願って博美にヨイショをしているとかそういう事ではない。博美が作ったのはごくごく普通の家庭料理だが、外食ではこれがなかなか味わうことができない。
 それに、離婚してからの衛は会社の後輩やサイトで知り合った仲間と連れだって、いわゆるデカ盛りとかテラ盛りといった大食い行脚にあけくれている。気持ちにぽっかりと空いた穴に、どんどんと濃く脂っこい食べ物を詰め込んでいった15年間だった。しかも詰め込んでも詰め込んでも、その穴は塞がらない。
 その空いたままの穴に、今は暖かいもの流れ込んできて満たされていく。
「あ、ありがとう……」
「何よ、おかしなの。こんなので良いんだったら、いくらでも作ってあげるから。って言うか、もう放っとけないよ。仕事があるから平日は来られないけど、週末また来るからね」
涙でぐちゃぐちゃになっている衛の顔を見て、博美はそういって笑った。


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Vanishing Point-バニシング・ポイント 28

Vanishing Point

「じゃぁ、この日はキャンセルで休日出勤ですか。最近テラさん頑張りますね。それにちっとも誘ってくれなくなったし」
デカ盛り行脚の予定をキャンセルすると言った衛に、後輩のデカモメイト綿貫亮平がそう言って不満をぶつけた。
「ああ、何かとうるさくってな」
衛は博美の口うるさい最近の食餌指導に、少し頬を緩ませてそう答えた。
「あれテラさん、その言いぐさは女ですか?」
「よせ、そんなんじゃない」
その表情に気づいて驚く亮平に、衛は慌ててそう返す。しかし、亮平はニヤニヤ笑いながら、
「そうかぁ、テラさんにもついに春が来たんですか。くそぉ、あやかりたいよなぁ」
と、続けた。
「本当にそんなんじゃない!!」
 15年ぶりの古女房との週末婚は、甘さのひとかけらもない。疲れてぐだぐだと寝ころんでいる衛のそばで博美は、やれ「食べ過ぎるな、飲み過ぎるな」とぶつぶつ言いながらご飯の支度をしているだけだ。
 ただ、正直言えばそれが嬉しい。ついこの間までは望んでも手には入らないと思っていたものを自分は今手に入れているのだから。
 そして、一つを手に入れるとまた次が欲しくなる。また3人で一緒に暮らしたい。名村の両親にそれを承諾してもらうためには、小さくても家を手に入れたい。そのために今までにもまして精力的に休日出勤をしているのだ。

「……衛、衛? ご飯食べないの?」
「ん? ああ、食べる」
ぼんやりと頭を振りながら目覚めた衛を博美が心配そうに覗き込む。
「疲れてない? すごくいびきかいてたよ」
「そうか? 夜もちゃんと寝てるけどな」
そう言えば、最近疲れがとれにくい。いくら寝ても眠い気がする。ま、40歳も半ばを迎えると、若い頃の様にはいかないだろう。そう思いながら食事の前にトイレに立とうとしたが、そのときちくっと左胸に痛みを感じた。最近時々あるのだが、大した痛みではないので、衛は何も対処していない。普通に用を足して、いつも通りの週末のひとときを楽しんだ。

「じゃぁ、行ってくるよ。安藤先生によろしく」
翌日、衛はアパートを一緒に出る時、博美にそう言った。衛は休日出勤で会社に、博美は教会に行くのだ。
「そろそろまた、礼拝に出てね」
「ああ、中野先生に説教される前に一度行くよ」
博美の言葉に衛はそう言って笑った。
 衛たち夫婦の結婚の司式をしてくれた中野牧師は高齢で引退しているが、一出席者として礼拝には出ている。いまや、教会全体のおじいちゃん的存在だ。
 そうだ、来週には礼拝に行かなきゃな、いくら先生たちが承諾しているっていったって、あのおばちゃん連中にいくらか嫌みを言われないと始まらないだろう。そう思いながら自分の部署のドアを開いたーー
 そのときである、衛の心臓がドクンと大きな音を立てたかと思うと強烈に引き絞られるような痛みが走った。
「うわっ、ああーっ!!」
衛はもんどり打って近くにある椅子を巻き込みながら倒れ、しばらくうめき声を上げながら喘いでいたが、ほどなくして動かなくなり、事務所は再び静けさを取り戻した。
 ほかの同僚が出勤するまでに一仕事片づけようと思っていた衛が、出勤してきたその同僚に見つけられたのは、そのおよそ一時間後で、衛の息は既になかった。

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バニシング・ポイント 29

 メッセージが始まってそろそろ15分、そろそろ今日の説教の核心部分になる頃だった。博美の携帯が振動した。 職場でも教会に行っていることはみんなに話してあるし、日曜日の午前中は電話しないようにも言ってある。ごそごそと鞄の中から携帯を取り出そうとした博美に横にいた明日美が、耳元で
「お母さん、礼拝中は電源ごと切っておいた方がいいよ。宣伝メールとかもあるからさ」
と言いながら母が取り出した携帯の着信元を覗き込む。
「あ、寺内のおばあちゃん」
 しかし、着信元を示す表示はメールでも単なる電話番号でもなく、寺内の義父の名前になっていた。とは言え、普段かけてくるのは圧倒的に義母だから、明日美もすぐ祖母からの電話だと思ったのだろう。
 何か緊急な用事でもあるのだろうか。寺内家の人間なら、博美が今教会にいることをよく知っているはずだ。だからこれはそれを押してまで電話をかけてくる用事だということだ。
 博美はすばやく携帯を持って礼拝堂を出、着信履歴から寺内の実家の番号を選択する。
「もしもし」
「もしもし、博美ちゃん?」
「ええ、何ですかお義母さん」
電話がつながると、いきなり衛の母の慌てた声が聞こえてきた。しかもどことなく涙声である。
「す、すぐに帰ってきて。衛が……死んだの」
マモルガシンダノーーそう耳には確かに聞こえてはいたが、博美はその言葉の意味を理解できずにいた。ほんの数時間前まで一緒にいて、一緒に出てきた。連休だからこっちに帰ってくると言った博美に、
『なら、早めに仕事を片づけてお前の帰ってくる昼過ぎには戻ってくるよ。一緒に買い物に行こう』

と言っていたのに。
「とにかく、今すぐウチに来て。今、徹が迎えに行ってるから」
「はい」
帰って来いの言葉にとりあえず返事だけをした。博美は携帯の着信を切って、力なくその腕をだらんと伸ばしたまま礼拝堂に舞い戻る。
「博美ちゃん、どうかしたの?」
戻ってきた彼女が顔色もなく立ち尽くしているのを見て、中野牧師の妻絵里子が声をかける。
「衛が……」
その時、マモルガシンダ、そのただの文字の羅列が一気に博美の中で衛が死んだという言葉に変換された。
「いやーっ! 衛!!」
博美はそう叫びながら、わなわな床に崩れた。
「博美!!」
「博美ちゃん!!」
絵里子や博美の父が慌てて彼女に駆け寄る。
「衛君がどうしたんだ!」
「衛が、衛が死んだって……お義母さんが早く帰ってきて欲しいって……」
博美のその言葉に礼拝堂が一気にざわめく。すると、
「じゃぁ、すぐにいってあげなくちゃね」
と言った絵里子の隣に座っていた中野師が、すくっと立ち上がり、
「安藤先生、『あれ』はまだあそこに?」
と言った。
「ええ、ちゃんと置いてありますよ。まさか『あれ』を使うことになるなんて思いませんでしたが」
と安藤師が答えると、
「じゃぁ、私が行きますから、先生は礼拝を続けて下さい。さぁ、博美さん私と一緒に寺内さんのところへ行きましょう」
その言葉に顔を上げ不思議そうに中野師を見る博美に、
「私は寺内さんのご両親にご相談があるんですよ。寺内さんのところへ連れていってもらえますか」
と優しい笑顔でそう返した。

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バニシング・ポイント 30

 博美と中野は博美の父の運転する車で急遽寺内家に向かった。
「博美ちゃん!」
寺内家に着くと、衛の姉、君枝が彼女らを迎えてくれた。
「事故? 今朝はあんなに元気だったのに……」
「ああ、最近時々衛の所に行ってくれてたんだってね。会社で倒れてて……会社の人が発見したときにはもう、死んでたそうよ。心筋梗塞だって」
「心筋梗塞……」
間に合わなかった。あんなに膨れ上がった衛を見た時、こうなることを怖れて、糖尿病や高血圧、高脂血症などの生活習慣病の対処法の本を読んで必死に勉強していたのに……こんなことになるんだったら、仕事なんかかなぐり捨てて、衛のアパートに押しかけて一緒に生活してしまえば良かった。博美はそう思った。
「さっき徹から連絡があったの、もうすぐ警察から帰ってくるわ。で、相談なんだけど、博美ちゃんが喪主になってくれないかしら。本来ならお父さんなんだろうけど、お父さんにあの歳になって息子の喪主をやらせるのはさすがにつらくて……」
だが、続く君枝の『喪主』の言葉に、博美は俯きながら頭を振った。 
「寺内に籍のない私がやるなんてそんなことできないよ」
そうだ、私は名前こそ寺内だが、寺内の人間ではない。
「でも、聞いたんだけど、そろそろ衛とよりを戻そうって話出てたんでしょ?」
「……」
博美が口ごもっていると、中野が君枝に頭を下げた。
「寺内さん、はじめまして。私は、教会の中野と申します。その寺内さんの告別式の事でご相談があります」
「何でしょうか」
「寺内さんは生前教会での告別式を希望しておられました。これを見て下さい」
中野は、一通の書類を取り出した。それは内容証明郵便で、中身は衛の『遺書』だった。そこには貯金などの財産を博美と明日美に相続させること、葬儀を教会ですることなどが書かれていた。
「実は、今月末のペンテコステに、彼は受洗を予定していました」
「私、聞いてない!」
その言葉に、君枝ではなく博美が反応する。
「ええ、博美さんをびっくりさせようと、内緒で洗礼準備会をしていましたからね。それに、寺内さんはここ半年ばかり、祈祷会にはちゃんと出席していたんですよ」
確かに祈祷会は平日だが。休日まで仕事に勤しんでいた衛が祈祷会に出席する時間があったなんて……そう言えば、祈祷会のある水曜日は、ノー残業デーだとちらっと言っていたことを思い出す。
『今の世の中、おいそれと仕事をさせてもくれないんだよ。何かというと時短だと言われる。だから、働きすぎなんて心配しなくて良い』
そう言っていた衛。
「衛、祈祷会で寝てなかったですか」
思わずそう聞いてしまった博美に、中野は軽く吹き出すが、すぐ真顔になって、
「いいえ、博美さんも解ってると思いますが、祈祷会は礼拝に比べて出席者は少ないし、それぞれ一言は祈りますからね、寝てなんかはいられないですよ。それに、寺内さんは本当に救いを求めてましたよ。灯台下暗し、得てして家族が一番その方の救霊に疎いものです」
といった。
「私は……私は彼の家族じゃありません」
家族という言葉に博美は頭を振りながらそう返した。
「今は、でしょ? 寺内さんは、ペンテコステの受洗が終わったら、その上であなたに『もう一度一緒になって欲しい』と言うとおっしゃってた。私はその日が来るのを本当に楽しみにしていたんですよ」
それに対して中野は、博美の肩を軽く叩きながらそう言った。
 そう言えば衛は最近、ふと黙り込んでしまうことがあった。博美が心配して声をかけると、何故か赤い顔をして
『心配しなくて良い』と言ってそっぽを向く。あれは、もしかしたら祈っていたのではなかったのか。衛が信仰を持ち始めていると思ってもいなかった博美には、その変化に気づきもしなかったのだが、そう言えば言葉の端々に聖書のみことばに似たニュアンスがあったような気がする。普段、全員が信者の中で暮らしている彼女には、そういう考え方をするのが当たり前で、特に気に留めもしなかったのだ。まさに、『灯台下暗し』だ。
 衛の『躓きの石』になっていたのは他でもない自分なのだと気づいた博美は、次の瞬間その場に泣き崩れた。

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