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メインディッシュは…-Parallel 1

メインディッシュは……

――平成元年――
 土曜日の夕刻、夏海は龍太郎ともにデパートの食品売り場にいた。

「奥さん、これなんかどう?脂がのってて旨いよ」
鮮魚コーナーで店員が鰤を指さしながら夏海に『奥さん』と声をかける。龍太郎と二人連れだっていたから、夫婦だと思ったのだろう。夏海には何だかそれがくすぐったかった。
「僕、そんなギラギラした魚は苦手なんだけど。」
ほくそ笑んでいる夏海の代わりに、龍太郎がそう答えた。
「そんなこと言わないで、今晩元気になるよ」
店員がすかさずそう返す。
「食べなくても僕は元気だから」
それに対して、龍太郎はそう答えて軽く笑った。
「もう……そんなこと、いちいち言わなくて良いの」
夏海はその答えに照れて龍太郎の肘をついた。含み笑いの龍太郎が、夏海の顔を覗き込む。それにシカトするように夏海が歩き出すと、龍太郎がそれに続いた。

「ねぇ、ホントに何が食べたい?決まらないんならどこかで食べてく?」
そう言った夏海に龍太郎は、
「今から外食だと、メインディッシュ食べそびれてもイヤだし」
と言って笑う。夏海は時計を見た。彼が言うほど遅い時間ではない。
「メインディッシュって、コース料理なの?」
「違うよ。」
「メインディッシュがあるんでしょ?」
夏海には龍太郎の言いたいことが解らなかった。
「そう、メインディッシュ、僕の一番欲しいもの」
「何なのよ、解んない」
すると、龍太郎は夏海の背中をすっと撫でてこう言った。
「メインディッシュは海だから…食事に時間がかかったら、後の時間がなくなっちゃうからね。」
夏海は龍太郎に海と呼ばれていた。
「もう、バカ……」
夏海は龍太郎の後ろに回ると、彼の二の腕を掴んで背中に頭を付けた。
「今日は悠(はるか)んちに泊るって言ってきたから。今月はこれが初めてだし。今日は時間があるから」
「でも、僕はやっぱり海の作ったものが食べたいな」
そう言う夏海に、龍太郎は甘え声で返した。
 龍太郎の態度を見ながら、そんな風に言うんならさっさと毎日龍太郎んちに帰れるようにしてくれても良いんじゃない?夏海は心の中でそう返していた。

 倉本夏海(くらもとなつみ)と結城龍太郎(ゆうきりょうたろう)は共に二十四歳。都立高校時代の同級生だった。
 音楽の事で盛り上がったのがきっかけでよく話すようになり、二年生の時に龍太郎から告白を受ける形で二人は付き合い始めた。そして、大学入学を機に龍太郎が生家をでてマンションに一人住まいを始めてから、二人は男女の関係になった。
 やがて夏海が短大を卒業して就職。職場の中で仕事を任されるようになってくると、おいそれと早い時間には帰れなくなる。追って大学を卒業した龍太郎も彼の父の経営する会社に入社すると、ほぼ平日は会えない状態になった。
 夏海の両親はたびたび一人暮らしをしたいと言う夏海の要求を、頑として聞かなかった。龍太郎との関係を薄々感づいている彼らは、そんな事をしたらたちまち半同棲状態に滑り込んでしまうと危惧しているようだった。
 夏海自身、なし崩しに同棲に持ち込もうというつもりはなかった。しかし、時々何が何でも帰らなければならないという今の状況に虚しさを感じるのは事実だった。親の言うことを無視するのは案外簡単なことなのかもしれない。だが、そうなれば親の信頼も失う。そう思うと、それを押し切ってまで外泊することは躊躇われた。
 それでも、時々は主には高校だが、短大時代などの友達を総動員して、順番に彼女らの家に泊まることにしてもらって泊ることもある。しかし、それすら月に一回、多くても二回が限度だ。しかも、頼みの綱である件の友人たちもちらほら結婚を始めていて、“言い訳”ができる場所が減ってきた。
 しかし、そのことを苦々しく話しても、龍太郎はどこ吹く風だ。
「今のままで良いんじゃない?」
そう言って笑うだけだった。
「お互い仕事が忙しいからね、毎日一緒に居るとケンカするだけだから」
そう思って時間がもっと合わなくなりそうな保育士になることを諦めて普通の企業に就職したし、大きなケンカをしていないということが本当はどういう事だか解っているんだろうか……

(本当にこの鈍感自己中男! 自分の時間がほしいなんて甘いこと言わないでよ!)
 いつまでこのままなのだろうと、夏海は思っていた。
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淡い期待-Parallel 2

淡い期待

「はぁ……」
夏海はその日、職場で何度目か判らないため息をついた。
「何かあったの、倉本っち。」
「ううん、別に……」
彼女はため息に気付いた男性社員に、そう答えた。

 言えるわけがない……彼女の目下の悩みは『いつもくるものがこない』ということなのだから。
思えば最近、龍太郎は全くと言って無防備だったりする。それについても、
「間に合わなかった、ゴメンね」
と笑顔で彼に言われてしまうと、もう責める言葉を吐くことが出来ない。それに、それは彼の衒いで、そうなることを本当は望んでいるのではないか。彼が学生だったころならともかく、今はお互い社会人だ。
夏海は心に淡い期待が広がるのを抑える事ができなかった。
 確実なことを知りたい。それなら三ヶ月を越えた方が良いんじゃないだろうか。それにはまだ間がある。でも、内心は一刻でも早く結果が知りたいのだ。その思いの行きつ戻りつが、職場であろうが何であろうが所構わずため息となって吐きだされてしまう。
 頭を切り替えて仕事仕事! 夏海は自分で自分の頭を拳でコンっと叩いて、パソコンの画面に向かった。

 悶々とした日々を過ごしていた夏海がそろそろ検査をと思っていた矢先、「月よりの使者」が訪れた。
彼女は心底ホッとした半面、とても残念だった。龍太郎が何も策を講じないまま突き進むことに期待してしまっただけ……彼女はそう思った。
 期間が空いてしまったそれは、いつもより長く辛かった。彼女は立っていることすらままならなくなり、それを上司に見咎められて早退を命じられた。
 しかし、そんな翌日も彼女はいつも通り、龍太郎のマンションに向かった。
「2回もすっとんだ後だから、もうへろへろ……何か気分悪いし」
そう言いながら、彼女はいつもと同じように部屋の掃除を始めた。
「へぇ、そう」
それに対して龍太郎は残念がる様子もなく、そう言っただけだった。どちらかと言えばホッとしたように夏海には見えた。思わず夏海からため息が漏れる。
「ねぇ、海。辛いんなら掃除なんて良いから。休みなよ」
ため息をつきながらも手を休めない彼女に、彼はそう労いの言葉をかけた。
――体が辛いのはホントだけど……本当に辛いのは心の方――
「そんなこと言ったって、私が掃除しなきゃ龍太郎ってばろくに掃除もしないじゃん!」
この鈍感自己中男は、たぶんそんなことも解んないんだ。夏海はそう思いながら、龍太郎の前でわざと掃除機をせかせかと動かしたのだった。

theme : 自作連載小説
genre : 小説・文学

クリスマスケーキと除夜の鐘-Parallel 3

クリスマスケーキと除夜の鐘

その日、夏海は不機嫌だった。
「今度従姉妹が結婚するの。でね、それを聞いたお母さんが嫌みたらたらで言うのよね、『夏海ちゃん、結城君はいつになったらウチに来るのかしらね』ってさ」
「え、海んちに遊びに行っても良いの? じゃぁ、いつにしようか」
夏海の愚痴に、龍太郎は嬉しそうにそう答えた。ただ普通に家に招待されたように思っているのだろうか。まったく……鈍感なのにも程がある。お母さんの言う意味を全く理解してないんだから! 夏海は思わずそう怒鳴りそうになるのを辛うじて堪えた。
「私、来月で二十五なんだけどな。」
それで、夏海はぽつりとそう言った。すると、
「あ、もうすぐ七月十九日だね。そうだ、今年の誕生日は何が欲しい?」
という答えが返ってきた。
「別に何にも欲しくない」
何か貰おうと思ってそんな話をしたんじゃない。夏海がそう思っていると、
「ねぇ、一番欲しいものって何?」
と龍太郎は催促した。本当にどんなものでも良いのかしら? 夏海はちらりと横目で龍太郎を見た後、
「私、指輪欲しいな。もらったことないよね」
と言った。それまで笑っていた龍太郎の顔が一瞬強張った。
「そうだね……買ったことなかったね」
と言うと、龍太郎は一旦夏海に背を向けた。
「仕事を初めてまだ三年も経ってないし、僕はまだそんな気分じゃないんだけどな」
しかし、振り向いてそう答えた彼の顔はもう、いつもの様な呑気な笑顔だった。その呑気そうな顔と「気分」という語句に、夏海の苛立ちはさらに加速した。
「じゃぁ、私は龍太郎の一体何!」
夏海は思わずいつになく声を荒げて怒鳴っていた。自分自身でもそんな自分を変だと思いながら、彼女はもう言わずにはおれなかった。
「うん? 恋人じゃないの?」
それに対して、龍太郎は、小首を傾げてそれ以外の何なのだという風に答えた。
(だから……いつまで恋人のままでいなくちゃいけないの!)夏海はその最後の台詞を飲み込んでしまった。言ってもたぶん、彼からは果々しいしい返事は返ってくるはずはないだろう、そう思ったのだ。
 
 夏海は、いつもくるものが遅れてやってきたときから、何か喉に苦いものが残って取れないのをずっと感じていた。
『女はクリスマスケーキ、二十五歳までに売らないと商品価値が下がってしまうのよ。男は除夜の鐘くらいで充分良いのよ……だから、結城君に結婚する気がないのなら、そろそろ本気で別れる事を考えなさい』
実は昨日の従姉妹が結婚を決めた報告の後に、彼女の母はそう続けていたのだ。

 母親の言う『結婚は女の幸せ』というフレーズには、正直反発すら感じていた。しかし、心から好きな男と恋人のままでいる『長い春』に焦りの気持ちを感じるのもまた事実だった。
その相反する二つの気持ちに彼女の心は嵐の小舟の様に揺れていた。

 夏海が「結婚」の二文字を出したあの日から、二人は何だか気まずくなった。時々会話が途切れる。いままでそんな事などなかった。元々食いつくものが似ているし、夏海は少し気を回せば龍太郎の食いつきそうな話題をひねり出すことなど容易にできた。今まではそうして些細なケンカを乗り切って、いつの間にかその気まずさを取り去っていたというのに。
  それでも、龍太郎は夏海の誕生日の直前の週末、彼には珍しく外のレストランでのディナーの予約を入れたと連絡してきた。
そして、その席で龍太郎は小さな箱を取り出した。中には指輪が入っていた。しかし、それは彼の経済状態からすれば些かどころか相当チープな、縁日ででも売っていそうなデザインリングだった。チープでも指輪は指輪――期待しない訳がない。夏海の顔が綻ぶ。それを見た龍太郎は、面倒臭そうにこう言った。
「そんな顔しないでよ。僕は結婚なんてまだまだ考えられないんだよね。三十くらいまでは好きなことがしたいし……」
「じゃぁ、何でこんなものくれるのよ」
夏海は渡された指輪を早速左手薬指に填めて、それを翳しながら彼を睨んだ。
「だって海は指輪が欲しかったんでしょ、そう言ったじゃない。嫌なら今からでも他の物にするよ」
(何だ、これってそんなに気持ちのない物だったの? なら、イラナイ!)彼女はそう思ったが、口には出せなかった。
『三十位までは好きなことがしたい』なら、三十歳を迎えれば考えてくれるようになるのか……アヤシイもんだと思いながら、それを待ちたいと思う自分がいるのもまた事実なのだった。
『それまで待っててくれるよね』
そういう意味だと、彼が口にもしていないことを彼の声で心の中で再生している自分が、自分で情けなかった。
 自宅に帰る道すがら、夏海はもらった指輪を左手から右手に填め替えた。待つのなら親はできるだけ刺激したくない。チープな指輪の方がそう考えると都合が良いかも……一瞬そんな風にまで考えて、自分の思考回路に彼女は苦笑したのだった。

theme : 自作連載小説
genre : 小説・文学

決定的瞬間-Parallel 4

決定的瞬間

夏海は時折、平日の会社帰りに龍太郎のマンションを訪れる事がある。切れかかっている生活用品を置きに行くためだ。龍太郎は本当にそういうことに疎い。大抵は一緒に買い物するのだが、うっかりと買い忘れて、それを思い出すことがある。その日彼女は、そんな日用雑貨を抱えて彼のマンションを訪ねたのだ。
 いつもはそんな時、龍太郎がいたためしはないのだが、その日玄関のドアは開いていた。あれっ、今日は休んじゃったのかしら、風邪でも引いたのかな。彼女はそう思いながらドアを開いた。
 開けてすぐ彼女の目に飛び込んできたのが、龍太郎の靴の横の自分のものではない女物の靴。そして、次に彼女の耳に届いたものに――彼女は全身を強張らせた。
それはあろうことか、女性の嬌声だったのだ。夏海は蹴り飛ばすかのように靴を脱ぎ散らかすと、つかつかと奥の寝室へと進んで行った。そして、勢い込んで彼の寝室に飛び込んだ夏海が目にしたものは――龍太郎が他の女性とまさに繋がろうとしている光景だった。
「海、どうして!」
龍太郎は突然の夏海の来訪に、飛び上がってその女性から離れた。
「同じ家に暮らせないって、ホントはそういうことだったの!」
買ってきた日用品を投げつけながら、夏海はそう叫んだ。
「ち……」
龍太郎は否定しようとしたのだろうか。あるいは舌打ちしたのか……ち、とだけ一言つぶやいて口ごもり、夏海に背を向けた。それから徐に側にあったバスローブを羽織ると振り返り、黙って彼女を見た。
「龍太郎?」
その表情は、それまで夏海が一度も見たことがないもので、冷酷という言葉がしっくりくる冷たい暗い表情だった。
「そうだよ、僕が海だけで満足できるだなんて思ってた訳?」
続いて吐きだされた言葉に、夏海は身震いした。驚きで声を失ってしまった彼女に向かって、龍太郎はさらに続けた。
「ま、一番体の相性が良いのは海だけどね」
そして、龍太郎は夏海の肩を抱いて、耳元で甘く囁いた。
「ねぇ、こういうとこ解かってくれるんだったら、今からでも結婚……してあげても良いけど?」
彼女は肩に置かれた彼の手を払いのけながら叫んだ。
「バ、バカにしないでよ! そんなの解る訳ないじゃない、龍太郎のバカ!」
私は結婚に焦ってあんなこと言ったんじゃない。ただ、龍太郎とずっと一緒に居たかっただけ……
「何よ、こんなもの!」
夏海は誕生日にもらった指輪を引きぬき龍太郎に投げつけると、鞄の中から指輪の箱も取り出して投げつけた。
そして、鞄を鷲掴みにしたまま、彼のマンションを飛び出して行った。

君子豹変-Parallel 5

君子豹変

 それまで、夏海は龍太郎に他の女性の存在を感じたことはなかった。
特にそういうことに敏感だとは言えないけれども、自分がいなければ特に片付けたりしない彼の事だから、そういったことがあれば現場を目撃しないまでも感じるものはあったはず。彼女には一切そういうものが感じられなかったのもあって、その時は憤慨して家に戻ったものの、その週末には相変わらず彼の許を訪ねた。
しかし、待っていたのはそれまでとは全く別人かと思われるような男に変わってしまった龍太郎だった。
 しかも、お坊ちゃん育ちの柔らかい言葉づかいから放たれる一言一言が夏海をぐさぐさと傷つけていった。
「私は結婚したいって言ってる訳じゃないわ。この前はお母さんが変なこと言うんだもん。だからつい……」
「つい? 君のお母さんが君に何を言ったかなんて僕は聞く気もないけど、思ってもいないことは人間言えないものだよ」
確かに人は、全く考えも及ばないことを口にはできない。私の中にも長い付き合いなんだから当然結婚を……という意識があったことは否定できない。だけど、彼に言われてようやく気付いた。私はただ、龍太郎と一緒にいたいだけなのだ。一緒に居られさえすれば、形なんてどうでも良い。夏海は本心からそう思っていた。
「私やっぱり龍太郎から離れられない。今のままで良いから、側にいるだけで良いから……」
涙をこぼしながらそう言う夏海を龍太郎は鼻で笑った。
「止してよ、そんな言い方。そんな心にもないこと言わないで。今はともかく、僕が歳を取ったら気持ちも変わってなんて考えてるんでしょ。残念だけど、それはありえないから。」
そう言った彼は、薄く笑っていた。
「僕は一生誰とも結婚する気はないし、その気持ちは変わらないよ」
「だから、結婚なんて望んでないわ。今のままで良いのよ。今まで通り、ね」
そう言って、夏海は龍太郎の胸に顔を寄せようとした。しかし、彼は静かにそれを払い除けた。
「そうか……今は本気でそう思い込んでいるのかな、海は。でもね、長い時間が経てば、そう言ったことを後悔する日が来るよ、きっと」
「後悔なんかしないわ! 絶対」
龍太郎の醒めた発言に夏海が声を荒げると、彼はゆっくりと頭を振った。
「するって、僕たち何年一緒にいるの。」
(じゃぁ、私が今まであなたに感じていたものの方がウソだって言うの?)夏海はそれを口に出そうとして止めた。今の龍太郎なら、それを肯定しそうだったからだ。

「もう、遅いんだ……」
唐突に龍太郎はそう言った。
「何が遅いのよ。ちゃんと解かる様に説明して!」
「海……僕たちこれで終わりにしようよ。それが海にも一番良い。僕はそれに気付いたんだ。だから……」
そう言うと彼は夏海に背を向けた。
「バカ!バカ、バカ、バカ、バカ……どうしたらそんな結論になるのよ……」
夏海はそんな龍太郎の背中に拳を打ちつけながら涙を流して返した。
「これ以上一緒に居たって、僕は海を傷付けることしかできないよ。だから、別れよう。僕はもう、決めちゃったんだ。もう……遅いんだよ」
龍太郎は天井を向いて一方的に別れを告げた。そして、縋ろうと差し出した夏海の両手を乱暴に振りほどいて、ベランダに向かって歩いて行った。

 やがて、夏海が龍太郎の部屋にある数少ない彼女の荷物をのろのろと紙袋に詰め始めると、龍太郎が彼女に近づいてきた。彼は右手を差し出すと、
「海、この前の忘れ物。」
と言って、彼女がこの前投げつけたデザインリングの箱を彼女に渡そうとした。
「もう要らないわよ、こんなの……捨てて。それと……」
夏海はそれを押し返した後、自らの鞄を探って、このマンションの鍵をとりだした。
「キーホルダーはそっちで外してね。何なら、それも捨てたら? ついでに鍵まで替えちゃうのもいいかしら。新しい女には新しい方が良いんじゃない?」
それは彼女の誕生石、ルビーをあしらったもので、彼から送られたお気に入りの品だったが、持って帰ったとしても、これからは見る度に悲しくなりそうだと思ったからだ。龍太郎は無表情にそれを受け取ると、
「そう……じゃぁ僕、送らないから。支度が済んでも声、かけなくていいよ。これから仕事しなくちゃならないんだ」
と言ってパソコンの前に陣取り、何やら書類を作成し始めた。

 そして、荷物を詰め終わった夏海は、何度も何度も振り返りながら彼の部屋を後にした。その間も、龍太郎は一度も彼女を見ることなく仕事に没頭していた。
 こんなにあっけなく終わってしまっても良いの? 夏海は玄関のドアを閉じた後、そのドアにもたれながらしばらく声を押し殺して涙を流し続けた。立ち去る音がしないのだから、彼女がそこに居ると龍太郎にも判っているだろうに、彼が出て来ることはついぞなかった。 

theme : 自作連載小説
genre : 小説・文学

「R」からの解放-Parallel 6

「R」からの解放


「R」からの解放

 
夏海には龍太郎が結婚に対して消極的だというか、拒否反応めいたものを持っている理由が何となく解っていた。

 龍太郎は、東証一部上場企業の社長を父に持つ、所謂名家のお坊ちゃまだ。彼が大学進学と同時に住み始めた今のマンションも、都内の一等地にある3LDK、家賃の事は聞いたことがないので、たぶん彼の父親(あるいは彼自身)の所有物なのだろう。
 経済的には豊かだったが、彼の父は彼と彼の母とを顧みなかった。父は正妻である彼の母以外の女性を愛し、家には寄りつこうとはしなかったのだ。
 しかし、体裁を重んじる彼の両親は、その婚姻を解消しようとはしなかった。母もそんな夫をそっちのけで趣味に没頭し、家を空けて過ごすことが多かった。同じ敷地内の別邸に祖父母が居るには居た。しかし、祖父がいるうちはまだ行き来はなくもなかったが、亡くなった後、祖母は口やかましく、何かと口を開くと嫁である彼の母の悪口を展開するので、彼自身が彼女を避けるようになっていった。
 結果、彼は幼いころから広い結城家に一人取り残されることとなった。夏海はそう聞いている。
 彼の面倒を実際に見てくれる血のつながらない大人たち――たとえそれが彼を心から愛してくれる存在だったにせよ――との生活は、次第に彼に見えない壁を作らせた。
 そして物腰は柔らかいが、目の笑ってない……そんな少年が出来上がる。夏海が出会った頃の龍太郎は、教室の隅でクラスメートの動向をつぶさに見ながら値踏みしている様な少年だった。
 しかし、そんな彼も、夏海には心を開いたのだ。少なくともこれまで彼女はそう思っていた。

 一人暮らしを始めてから、初めて彼女が彼のマンションで泊った時、ふと目を覚ますと龍太郎は、ベッドに膝を抱えて坐っていた。それを見た彼女は思わず首筋から包み込むように彼を抱きしめた。驚いて夏海を見た後、ホッとして幼児の様な表情になった龍太郎の顔がまだ夏海の脳裏に焼き付いている。それ以来、彼女が彼の部屋に泊まるときは、寝る前に必ずと言って良い位、そうやって膝を抱えて坐っている彼を背後から抱き締めるのが、半ばお決まりごとの様になっていた。
 思えば彼は彼自身を夏海に全て晒してから以降は、彼は夏海に対していつも甘え口調だったかもしれない。龍太郎は私を女としてではなく、母の代わりとしてしか愛せないと言うことなのだろうか。

 夏海は龍太郎の突然の別れをすんなり受け入れた訳ではなかった。しかし、彼女は彼のそうした「影」の部分も知っていただけに、彼が一生誰とも結婚しないし、それを期待する夏海を遠ざけようという気持ちになったのだろうと、そう理解した。実際、彼はマンションこそ出なかったものの、翌日には電話番号は変えられており、それがはっきりとした別れの意思表示だと夏海は受け取った。直接乗り込んだところで、彼は話し合いには応じない、そう思ったのだ。
 かくして……夏海と龍太郎は別々の人生を歩み始めたのだった。
 
 
龍太郎と別れて夏海が一番困った事、それは休日の過ごし方だった。
 平日は良かった。仕事に没頭していれば良いのだから。夏海の様なお局様手前の女性は、仕事が頭に入ってる上に、男たちを頭で抑えつけたりしないので、求めさえすればいくらでも仕事を割り振ってくれた。
 しかし、休日は違う。朝食を食べてしまえば、朝から何もすることがないのだ。
だからと言って、夏海の性格ではだらだらと惰眠を貪ることもできず、とりあえず見たくもないテレビのスイッチに手が伸びるだけだったりする。
 今まで、休日は龍太郎と共に過ごすのが当たり前だった。よほどの用事でない限り誘いにも応じない彼女は、次第に誰からも誘われなくなっていった。以前はそれをありがたいとさえ思っていたのに。
 改めて自分からかつての友人たちに遊びの誘いをかければ良いだけの事だと解かってはいる。だが、そうなると夏海は彼女らに龍太郎との関係の終結を告げる事から始めなければならない。今の夏海にはそれは辛すぎた。彼女は嫌いで別れた訳ではなかったからだ。
報告自体も辛いが、彼女の慰めの為に龍太郎をこき下ろすであろうその台詞も、彼女は聞くことが出来そうになかった。

 そんな日曜日の午後のことだった。所在なくリビングのテレビを見ていた夏海に、彼女の母が言った。
「珍しいわね、結城君は仕事?」
そう聞かれた夏海は俯いて首を振りながら答えた。
「龍太郎とは……別れた」
「そう、やっぱり」
夏海は母の返事を聞いて頭を上げた。お母さん、気付いていたんだ。龍太郎に別れを告げられたあの日でさえ、私は家族の前では涙を見せなかったと言うのに……
「夏海ちゃんには悪いけど、正直お母さんホッとしているわ。」
「ホッとしてるって……」
母親の言い草に彼女はむっとした。
「今なら充分間に合うもの」
彼女は続く母からの励ましにぷいと顔を背けた。
心配する母の気持ちは解からないでもない。でも、そうやって結婚に焦らされた結果がこれなんじゃないの? 母に恨みがましい気持ちが沸々と湧くのを感じて、夏海は黙ってテレビを消すと、自分の部屋に戻って行った。

 夏海は事情を知らない会社の同僚と休日も過ごすことが多くなっていった。
中でも、今年入社してきた中谷小夜子は、五歳年下ながら気が合うと言うのか、夏海にひどく懐いていて、彼女に合わせて行動しているというのか、自然と彼女と行動することが多くなっていったのだった。
 そんなある日、小夜子が待ち合わせの場所に男性を伴ってやってきた。
武田康文――埼玉の大学三年生の彼は、小夜子の一年先輩で、先日街でばったり出くわしたと言っていた。
 夏海は一目で小夜子が武田に気があるのだと判った。しかし、引っ込み思案の彼女は、一対一でのデートを申し込むことができなかったのだろう。私はダシにされているだけなのよね。夏海はそう思ったが、自分だって龍太郎と付き合っていたころはそうやって散々友達をアリバイ工作に利用してきた経緯がある。(ま、罪滅ぼしってことでいいかしらね)夏海はそれこそ、小夜子の姉か母にでもなった気になって同席していた。
 実際、彼らの話の内容は、当然ながら彼女の知らない人物の話が中心。夏海は正直に言って内容もほとんど聞いていなかった。
 それに、夏海はどんなに友達とワイワイ話している時でも、店のBGMだけは何故か聞えていて、好きな曲だと反応して口に出してしまう癖がある。しかも、それは大抵というかほぼ間違いなくクラシックなので、他の面々にはスルーされてしまうのだが……
「あ、ジムノペデイの三番……」
その時も夏海はそうぼそっと呟いてしまっていた。
「あ、ホントだ、エリック・サティ、ジムノペディの三番だ。倉本さんもクラシックお好きですか。」
すると、武田は話を中断させてそう答えた。
「ここは良い曲がよくかかるから、俺も好きな店なんです」
そう言えば、今日は珍しく小夜子が店を指定してきたなと思ったのだ。小夜子がチョイスしたのではなく、武田のチョイスだった訳か……夏海はそのことに妙に納得した。
「ごめんなさい、話の腰を折っちゃったかな。私、幼稚園の先生を目指してた頃があって、ピアノずっとやってたから……」
やってたと言うほどではない。元々クラシックが好きだし、この曲は龍太郎も好きで、マンションで何度も一緒に聞いた曲の一つだったからだ。夏海の心の中に、あの頃の風景が鮮やかに甦る。
「あれ、何か訳ありの曲でしたか? おーい、何か遠い目してますよー」
夏海は彼女の顔の前で手を振りながら言う、武田のお茶ら気た一言で我に返った。
「センパーイ、失礼ですよ、そういうの」
小夜子がはらはらした様子でそれに苦言を呈した。
「う、ううん……そんなことないわよ。この曲好きだからじっくり聞いていただけよ」
夏海は慌てて小夜子にそう言った。
 龍太郎からはもう解放されたはずなのに、モノの好みも音すらも結局彼に戻っていく。私だけのモノは一体どこにあるのだろう、どこに置いてきたんだろう。そう思ったのが顔に出てしまったみたいだ。夏海は苦笑しながら軽くため息をついた。

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genre : 小説・文学

後輩の彼氏-Parallel 7

後輩の彼氏



 夏海はそれから何度か小夜子と一緒の際に武田と会うことになった。
大抵は彼女と一緒に居る時に武田が合流してくるパターンだ。夏海と女同士の買い物などをしていると、夕食くらいに彼がやってくる。
(親への言い訳なのかしらね。)と夏海は思った。それなら口だけで、『今日はナツ先輩も一緒だったわ。』と、親に言えば良い訳で、その手は散々自分が使ってきた。律儀に私を呼ぶことないじゃない。高校時代というシチュエーションだけで、龍太郎を想起させて時々苦しくなることがあるのに……
 しかし、夏海は小夜子に面と向かってその苦言を呈することはなかった。かつての自分たちを見るようで辛い半面、現在進行形の恋愛ドラマをリアルタイムで見られるおばさん的な好奇心も働いていたのだ。
 やがてその内、休日に小夜子から誘われることすらなくなっていった。それは武田との付き合いが上手くいっている証拠――喜ばしいことなのに、夏海は何故かそれに寂しさを感じていた。
 武田とは音楽の趣味が合う。大体、クラシック音楽の話をしても、大抵ウザがられる。曲名がすんなり出てくることもまずあり得ない。だから、かかってきた曲に間髪いれず反応してくれると、嬉しくなって話を紡いでしまって大いに盛り上がる。それで、いつの間にか小夜子だけを置いてきぼりにしてしまったことが何度かあったのだ。彼らの関係が親密になったこともそうだろうが、そのことも自分を誘わなくなった一因だろうと容易に想像できた。
 思えばその頃、小夜子から頻繁に武田の惚気話を聞いた気がする。たぶん、『彼は私のモノよ!』という意思表示なのだろう。(なら、最初から私をダシにしなきゃ良いじゃない。大体、後輩の彼氏になんて興味ないわよ!)小夜子からそういった惚気話を聞かされると、夏海は必ずそう思った。
 そんなある日、武田から直接電話をもらった。
「最近倉本さんに会えないから、小夜ちゃんから電話番号聞きました。CD返してなかったでしょ」
そう言えば、彼に貸したままのCDがあったな……夏海はそう言われて、そのことを思い出した位だった。

 夏海は初めて小夜子を交えないで武田に会った。
「これ、一緒に行ってくれませんか。」
その際、武田に彼の大学のオケの公演に誘われた。
「どうも、小夜ちゃんはこういうの苦手みたいで……」
本当は小夜子と一緒に行くつもりで手配したのだろう。でも、あの娘のことだから、あからさまに嫌がったりしないだろうが、退屈だという気持ちが顔いっぱいに出ていたんだろうなぁ。夏海はそう想像してくすっと笑った。
「あら、だからって私なんか誘って小夜ちん、怒らない?」
「大丈夫ですよ。倉本さんは小夜ちゃんにとってお姉さんみたいな人ですから。彼女の前の職場を辞めた理由、知ってます?」
「いいえ?」
それが私を信頼する理由とどう関係があるのだろう。夏海は首を傾げた。
「あいつが前の職場を辞めた理由って、いじめなんですよ。あいつって、ちょっと天然入ってるでしょ? お局様の逆鱗に触れる事、言っちゃったらしいんですよ。それで、ちまちまねちねちいびられて、放りだされたんです。」
そうか、そんな事があったのか……彼女の今のびくびくと他の人を覗うような様子は、それの恐怖感からなのかもしれないと思った。
「今の会社に入ってからは、倉本さんが根気よく教えて仲良くしてくれるから、凄くうれしいって。本当のお姉さんみたいだって言ってました。」
確かに入社当初は彼女に正直イラついたこともあった。だけど誰だって最初は初心者だ。自分だってきっと同じように思われていたに違いないし、習得速度にはそれぞれ個人差というものがある。習得速度が遅いものの方が出来た時完璧にこなせる事が多い。そう思って繰り返し説明したのが、彼女の心に響いたのだろうか。
 それに…龍太郎と別れてからは、彼女の自分を姉の様に慕う人懐こい笑顔にこちらが救われている。
「小夜ちんに私を誘うって言った?」
「いや、まだ…」
「じゃぁ、言わないで。無駄なやきもちなんて妬かせたくないから」
夏海は小夜子の気持ちを考えて武田にそう釘を刺した。

 その公演をきっかけにして、武田は夏海に時々電話してくるようになった。大抵は音楽の話なのだが、そこに時々小夜子の愚痴が挟まる。
「一体、小夜ちゃんってどうしたいのか解からないんですよね」
ため息交じりに彼はよくそう言った。
夏海はそれを聞いて、男でもやはりそう思うのだと思った。
 女性は意中の男性に対しては概ね寛容になって、無意識に合わせたり自分を抑えたりするものではあるが、彼女の場合それは男性に限ったことではないし、度が過ぎるように夏海も感じていた。
 食事のメニューはもちろん、そもそも出かけるときの行き先、買い物等、全て夏海に合わせようとするし、先に決めるように促しても、決めてほしそうな目で夏海を見つめる。最近になって、そんな彼女の態度に夏海も時々苛立ちを感じてしまうことがあるためだった。武田の前でも小夜子は同じか、さらに依存的な態度を取っているだろうということは、容易に想像できた。 
 しかし、そんな小夜子と武田は別れようという気はないようだった。
心配するだけ損なんだ、男と女などそんなものだと思いながら、夏海はほんの少しそれが寂しいとも思っていた。
 直接電話をくれるようになっていた武田に、何かしらの下心があって欲しいようなそうでないような……そんな微妙な揺れのようなものを、夏海は感じ始めていた。

theme : 自作連載小説
genre : 小説・文学

誕生日のプレゼント-Parallel 8

誕生日のプレゼント


「倉本さんは遊園地は苦手ですか」
ある日、夏海に電話で武田が唐突にそう尋ねた。
「別に好きでも嫌いでもないけど?」
そう言えば龍太郎が苦手だったのかもしれない。大体にして出不精だった龍太郎とは、買い物以外には出かけたことがあまりなかった。高校時代仲の良かった速水容子に拝み倒されて、ダブルデートしたくらいか。それも、ほとんど乗り物に乗らない龍太郎に合わせて、夏海も絶叫マシンには乗らなかった。まるで、容子たちの保護者と言う方が正しかったのではないだろうか。
「実家が新聞購読のおまけに遊園地のタダ券もらったって言うんですよ。ねーちゃんはそんなもん要らないって言うから、俺がもらおうと思ってるんです。倉本さんって、七月生まれでしたよね。」
「ええ、七月一九日……」
「誕生日プレゼント代りに、一緒に行きませんか? 俺、金ないからこんなことしかできないけど……」
彼はそう言って笑った。
(そう言えば、龍太郎とは誕生日に指輪を……なんて言って、それが別れの引金になったんだっけ。もう、あれから一年も経つのか……)
「別に行くのは構わないけど、三人なんかで行ったら小夜ちんの機嫌、悪くならない?」
しかし、そういう場所なのだ。当然小夜子も行くに違いない。
「えっ、券二枚しかもらわなかったから、小夜ちゃんは誘わないつもりですよ。俺と二人じゃダメですかね」
武田君と二人?……
「ダメじゃないけど……」
夏海は戸惑いながらそう答えた。武田がこうして自分の誕生日を覚えていてくれて、気を遣わせないような形で誕生日プレゼントを用意してくれることはとても嬉しかった。しかしその反面、自分は彼にどう思われているのだろうという疑問が頭をもたげるのを抑えられない。
「良かった。じゃぁ、決まりってことで。この時期ならプールも解禁されてるから、水着も持ってきてくださいね」
武田は、嬉しそうにそう言うと、音楽のことに話題を変えた。

 夏海は水着を新調した。ビキニを着る勇気などとてもなかったが、目に付いて思わず購入したものが真っ赤だった事に彼女は苦笑いした。
無意識に彼に合わせて若く見せようとしているのかもしれない。バカな私……彼は後輩の彼氏だと言うのに、何を期待しているんだろう。

 当日の天気は晴。むせ返る熱気で陽炎が立つ中、夏海は武田を待った。
「すいません、待たせちゃいました?」
待ち合わせ場所に遅れて来た彼は、彼女を見ると汗を噴き出しながら小走りでやってきた。
「ううん、気にしないで。どれだけかかるか判らないから、早めに来たの」
それを見て、夏海はそう言った。
「しっかし、あっちぃー! 絶好のプール日和だな。プールが呼んでるぜ」
彼は着ているTシャツをバタバタさせながらそう言って夏海を先導した。

 夏海と武田は遊園地のいくつかのアトラクションを周った後、プールに向かった。水着に着替えた夏海に武田は、
「倉本さんって、ホント色白いですね」
と言った。夏海は自分があまり色白だという意識がなく、その言葉に驚いた。
小学生の頃、泳ぐのが好きだった彼女は学校のプールに通い詰め、母からは『女の子なのに裏か表か判らない。』と何度も嘆かれた。
だが、大人となった今ではそんな風に屋外で泳ぐこともないし、仕事もデスクワークで歩きまわることもない。休みの日もアウトドアではなく、地下街でショッピングすることが多い。そう言われて見てみると、確かに浅黒くはなかった。
「そのまま焼いちゃうと痛いですよ。塗ります?」
武田はそう言ってサンオイルを取りだした。
「あ、この歳で焼くと大変なことになっちゃう。だから、私はこっちよ。」
夏海は自分のポーチから日焼け止めを取りだした。
「まだ若いじゃないですか。」
そういう彼に彼女は手を振りながら、
「ダメダメ、二十五過ぎたらオバサン。」
と返した。
「自分でそんなこと言っちゃダメですよ……あ、貸して下さい」
武田は塗りにくそうに背中に日焼け止めを塗る夏海から、それをもぎ取ると、少しにやけた表情で彼女の手の届かない部分に塗り始めた。
そっと水着を持ち上げて、布に隠された部分にまで手が及ぶ……それは痛い思いをさせないようにとのただの気遣いだろうが、夏海の心はざわざわと騒いだ。

 ひとしきり泳いだ後、夏海はこの日誘ってくれたお礼に作った弁当を取りだした。
「うわっ、これ全部夏海さんが作ったんですか?」
夏海がフタを開けると、武田はそう言いながら、嬉しそうにおかずの一つを手で摘まんで口に入れた。
「ええ、料理は嫌いじゃないし、ほら、お箸もここにあるから……でも、口に合うかが心配。嫌いな物とか入ってないかしら」
(龍太郎の家に行っていたときには定期的に作っていたけれど、最近はあまりお料理してないしな。それに、龍太郎はいろんな意味で食べられない物が多かったから、結局パターン化していたような気がするし)夏海は小夜子のいないのを見計らって、会社の若い男性にお弁当で入れてほしいものを聞いてもみたのだが、やはり個人で好みは違う。
「え?俺何でも食べますよ。ホント、旨いっす」
武田はそう言うと、モリモリと弁当を口に運んだ。そして、満面の笑みを浮かべて、
「倉本さんの旦那さんになる人って、ホントに幸せだな」
と言った。夏海はその“旦那さん”の一言に一気に表情を曇らせた。
「すいません、悪いこと言っちゃいましたかね」
そんな夏海の表情を見て、彼は慌てて謝った。
「そんなことないわよ」
そうは言ったものの、夏海の脳裏を龍太郎の笑顔がかすめる。
「エリック・サティの人の事、まだ忘れてないんですね。でも、倉本さんにそんな顔をさせる奴のことなんて、早く忘れた方が良い」
武田はそう言うと、また弁当に箸を進めた。
私が初めて会ったときに、ジムノペディの三番に反応したこと、覚えていたんだと、夏海は思った。思えばあの時、『なんか訳ありの曲ですか』なんて不躾な質問をいきなりぶつけてきたっけ。不思議とあの時、腹は立たなかった。
 ただ、忘れたいのに忘れられない……それは今も変わっていないのだ。なら、あなたがそれを忘れさせてくれるとでも言うの? 夏海は『旨い』を連発しながら弁当を頬張る武田を見ながら、そんな苛立ちを感じていた。

突風-Parallel 9

突風


二人は遊園地を後にし、最寄駅で帰りの電車を待っていた。
「今日は楽しんでもらえました?」
武田の言葉に夏海は笑顔で頷いた。
「倉本さん、まだ時間良いですか。」
武田にそう言われて、夏海は駅構内の時計を見た。まだ五時半をまわったばかり、夏の夕暮れはまだまだ先で、昼と言うも過言ではない。そんな時間帯にそんな風に聞かれるとは思わなかったので、彼女は少し面喰った。
 龍太郎との付き合いは、毎度終電との勝負だった。明らかに乗れなくなって、龍太郎の車で家の傍まで送ってもらうことも何度もあった。
「お昼に美味しいお弁当を作ってもらったから、夕飯は俺がおごります。もっとも、学生御用達の安い店しかムリですけど。俺のアパートの傍に、安くてうまい洋食屋があるんですよ。一旦、三駅先で降りてもらえますか」
武田はそう言って夏海を誘った。彼の実家は東京二三区の下町にあるのだが、彼はそこを離れて大学の近くに一人暮らしをしていた。
「時間はまだまだ大丈夫だけど、お金ないんでしょ? 私が払うわ」
「誕生日なんだし、俺に払わせてください。それより倉本さん、ビックリしないでくださいね」
夏海の申し出を彼は手を振って断り、そう付け加えた。
 しかし、学生相手の店でのビックリとはどういうことなのだろう、夏海はそう思いながら武田に連れられて、学生街の洋食屋に足を向けた。
そして、確かにビックリしたのだ。何がかと言うと、その量とその量に比例しない値段にだ。普通サイズのメニューももちろん用意されてはいる。しかし、中にいる学生と思しき面々は、大半が男性だったからもあるのだろうが、挙ってとんでもない量の盛りを注文していた。
「ねっ、言った通り驚いたでしょ」
「ちょっとね……でもとっても美味しいわ」
「それでこの値段なんですから。ホント助かってますよ」
武田はそう言って、カウンター席に料理を運んでいたこの店の主人の奥さんらしき女性に敬礼してみせた。
「ウチもいっぱいいっぱいなのよ。でもね、こういう学生さんたちの声を聞いちゃうと、サービスしないではいられないんだよねぇ」
それに対して、彼女はそう言って人の良い笑顔を二人に向けた。

「ああ、お腹苦しい」
夏海は店を出て一番にそう言った。
「そうですか? 俺なんかはいつもアレに慣れてるからかな、東京のランチなんか量が少なくって困ってるんですよ」
武田は中くらいの量を完食していて、更に夏海が残したものも攫えていた。
「ごめんなさい、今日のお弁当……量少なかったかしら」
夏海はそれを聞いて不安になった。
「いいえ、だって倉本さんほとんど食べてなかったし。俺ばっかが食って良いのかなぁって思ってたんです」
元々夏海は食が細い。武田がどんどんと食べ進めるのを、内心無理しているのではないかと心配していた位だ。龍太郎は『油断すると太るんだ』と言って、食べる量をコントロールする所があった。そうやって躊躇なく飲み食いできるのも、若い証拠なのだろうかと、そんな風に夏海は思ってから苦笑する。若いと言ってもたかだか四つではないか――妙齢の人間に言うと、そう言って叱られてしまいそうだ。

 店を出た後、駅に向かって歩き出した夏海に、武田が後ろからこう言った。
「コーヒーでも飲んで行きませんか。こっちです」
「何処に……いくの?」
店のない方に歩き出す彼に、少しどぎまぎしながら彼女が聞くと、
「俺のアパートじゃいけませんか。すぐそこなんですけど。チェレスタのCDが手に入ったんです」
ちょっと休憩して行ったら? そんな調子で武田は言った。だからと言って、ほいほいと付いて行っても良いものだろうか。夏海は逡巡しながらも結局は誘われるまま、彼のアパートに向かって歩き出していた。

「綺麗じゃないですけど。」
そう言いながら、武田は夏海を自分の部屋に迎え入れた。そう言う割には綺麗じゃないの。夏海はそう思って部屋の中を見まわした。物自体が少ないのだ。それでもクラシック好きの彼らしく、そういった類のCDが床に平積みしてあったのが目に付いた。
「あんまり見ないで下さいよ。POPSだったらレンタルもできるんですけど、こういうのは小まめに見つけて買わないといけないでしょ。で、バイト代をほとんどつぎ込んじゃうことになる」
武田は夏海がCDの山を見ているのに気付いて、苦笑しながらそう言った。
「これが言ってたチェレスタのCDですよ。大音量に出来なくて悪いですけど」
そして、彼はそう言いながら突き刺してあったヘッドホンのコードを抜いて、一枚のCDを機械に入れた。甘く物悲しい調べがアパートの部屋に充満する。
「私も、普段からあまり大きな音で聞いてないから」
耳の良い彼女は世間並みの三分の二位の音量で聞くのが常だった。それだからこそ、喫茶店のBGMにも反応してしまうのだろう。
 武田は部屋にある小さな冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出すと、紙コップにそれを注いで夏海に渡した。二人はそれを飲みながら、音楽の話を始めた。
 ひとしきり話した後夏海は、
「じゃぁ、御馳走様。本当に良い誕生日になったわ」
と言って立ち上がって、アパートの出入り口を目指した。だが、武田はそんな彼女の右手を掴んで引き止めた。
「待ってください。夏海……さん、これからそう呼んでいいですか」
「た、武田君? 離して!」
夏海は驚いてその手を振りほどこうとしたが、男の武田の手はびくともしなかった。
「俺、夏海さんのこと、初めて会ったときから好きになっていました。だから今日は、決めてたんです。部屋まで来てくれたら告白するって」
そして、武田は夏海にそう告げた。夏海はまるでいきなりの突風に煽られたような気分だった。夏海の心臓がキュンと一瞬跳ねた。
「で……でも、あなた小夜ちんとはどうしたの? 私、あの子から別れたって話は聞いてないわ」
そうよ、別れたのなら彼女から武田を直接知っている自分に泣きの一つも入らない訳がない。一旦は浮足立ったものの、気を取り直して彼女はそう考えた。自分と彼との関係を疑っていないのなら真っ先に相談するだろうし、縦しんば疑っていたとしても、それなら逆に嫌みの一つも聞かされてもいいものじゃないだろうかと……
「それはまだ……」
そう口ごもる彼を彼女は横目で睨んだ。
「だけど、夏海さんに会ったのは、小夜ちゃんと付き合うっていう話になったすぐあとだったから……そんな約束するんじゃなかったって、俺だって後悔してますよ。そしたら、こんなに悶々とすることなんてなかったと思うし」
やはり武田は小夜子と別れてはいない。
「だったら、そういう話はきっちり別れてからするもんじゃない? 私、二股かけられてるって解かってて付き合うほど、バカじゃないわよ。第一、私が龍太郎と別れたって知っていたとしたって、そんな物欲しそうな顔してた? 心外だわ!」
そして、だんだんと腹立たしく感じてきた夏海は、掴まれていない方の左手で――それが彼女の利き手であったこともあって――武田の頬を打ってそう言い放った。女の細腕では大した力ではなかったが、彼は驚いたのか手を話した。そして、俯くと、
「小夜ちゃんとは必ず別れます。だから、少し時間をください。小夜ちゃんは俺が夏海さんを好きだなんて夢にも思ってないだろうから。それに、この気持ちが俺の一方通行でも、それがために二人の関係、悪くなっちゃうでしょ? ねぇ、夏海さん、俺の独りよがりですか? じゃ、ないですよね」
武田は、小夜子との別れを約束した。夏海が『口でなら何とでも言える。』と反論しようとした時、逆に夏海の彼への気持ちを尋ねられて身体が強張った。そして、かなり逡巡した末に否定できずにこくりと肯いた。
 いつの間にか芽生えて消せなくなってしまった武田への想い。四つも年下、自分を慕ってくれている小夜子の彼氏――幾度も鍵をかけて封印しようとしてもできなかったのは、実は自分も同じだった。
「大丈夫です。小夜ちゃんには気付かれないように別れます。だから、俺に勇気をくれますか。」
武田はそう言って今度はしっかりと彼女を腕に絡め取ると、彼女の唇に自分の唇を深く重ねた。夏海は、全身の力が一気に抜けて行くのを感じた。
 ズルイ男だ。どう転がっても良いようにしているだけだ。でも……嫌いにはなれない。この先、この男がずるずると小夜子と引きずるようになっても、私はそれを許してしまうのだろうな。夏海はぼんやりとした頭でそう思った。

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genre : 小説・文学

逆転-Parallel 10

逆転

 大学の長い夏休みが終わる頃から、小夜子の機嫌がだんだんと悪くなるのが夏海にも判った。武田が卒業準備を理由に少しずつ彼女を遠ざけているのだ。
「ああ、その頃? そう言えば龍太郎もカリカリしてたかしら。部屋に行っても、ずっとレポートを書いていて、わたしはそれをずっと見てるだけだったり」
龍太郎の事を直接知らなくても、高校時代から彼と付き合いがあったことを小夜子は知っている。龍太郎の卒業間際の事を聞かれて、夏海はそう答えた。
「浮気でもしてるんじゃないでしょうか。何かやっちゃんから聞いてませんか、ナツ先輩。」
小夜子はため息交じりにそう続けた。夏海は内心動揺しながら、
「えっ? 最近私には連絡すらないわよ。だから、二人上手く行ってるんだと思ってたんだけど?」
と、表向きは表情も変えずにそう言った。
「そうですか……じゃぁ、ホントに勉強なのかなぁ」
小夜子は首を傾げる。このまま側にいては、動揺に気付かれそうだ。夏海は書類を抱えると、小夜子に背を向けてコピー機の前に向かった。
 それに、これは浮気じゃなくて本気。彼の心はもうあなたにはない。
夏海は最初こそ二股かけられているような気分だったが、今は女同士の関係を崩さないための彼の配慮だと思うようになっていた。
 都合のいいように武田に操られているだけなのかもしれない。彼女はそうも思ったが、それをもはや苦々しく思わなくなっていた。
 
 ――秋――-
 夏海は武田から大学祭に来ないかと誘われた。
「ねぇ、いきなり小夜ちんが現れるとかない?」
と心配する彼女に、」武田は笑いながら言った。
「夏海さんは心配性だな。大丈夫、最近はほとんど会ってないし、大学祭の日程なんて小夜ちゃんは知らないですから」
彼のことを信用しないのではない。だが、夏海が怖いのは小夜子も持っているであろう女のカンなのだ。
 夏海はあれから、武田とは一切会ってない体を貫いていた。下手に友達としてでも交流があると言えば、自分からももう少し彼女に連絡しろと説教をするように頼まれそうだし、そんな演技を小夜子の前で武田に電話ででもして見せられる自信は、正直夏海にはなかった。
何かを感じてこっそりと大学に来た小夜子が、会ってないはずの自分と彼との姿を見つけたら…そう思うと夏海は気が気ではないのだ。
 それで、夏海は小夜子に大学祭当日、別の場所への誘いをかけてみた。もし、彼女が乗ってくるようなら、後日何かしらの用事を作ってキャンセルするつもりだった。
「あ、その日ですか? 法事です、ごめんなさい」
しかし、それに対して済まなそうにそう言った小夜子に、夏海はホッと胸をなでおろした。親への言い訳にも本当に自分を誘ってしまう彼女のこと、それが全くの嘘で、こっそりと覗いているというような芸当はできないだろう。
「最近忙しいナツ先輩が、折角声掛けてくれたのに……ホントにごめんなさい」
笑顔で謝る小夜子に、夏海は胸が痛んだ。

 夏海はその夜、そのことを電話をかけてきた武田に報告した。
「ほら、やっぱり大丈夫だったでしょ。夏海さんは心配し過ぎなんですよ」
「康文は呑気すぎるのよ。女って怖いのよ」
やはり笑っている彼に、夏海は不満そうにそう返した。
「ホント、女って怖いな。夏海さん、毎日小夜ちゃんと顔合わせてるのに、全然気づかれてないんでしょ」
「たぶんね……でも、あなたがそれを言う訳?」
誰のためにここまで神経を遣ってると言うのだ。
「おー怖っ。そうです、一番悪いのは俺ですからね。ホント、苦労かけます」
普段は低音なのに、笑うと妙に高くなる武田の笑い声が受話器いっぱいに響いた。

theme : 自作連載小説
genre : 小説・文学

同じではない未来-Parallel 11

同じではない未来


夏海は武田の大学祭に出かけた。
彼に案内されながら学内を周っていた時、「模擬結婚式」なる看板が彼女の目に飛び込んできた。近づくと、受付らしい学生から、
「今日の記念にどうですか。ウエディングドレスも各種サイズをとり揃えてありますよ」
と呼び込みをかけられた。ツーショットで歩いていたからだろう。
「記念ってもねぇ……」
自分が彼と同じ大学生なら、面白がってやってみる気になったかもしれない。実際にそのすぐ横では、いましも模擬結婚式を終えたカップルが、主催者たちのライスシャワーを浴びて照れた様子で笑っていた。
「実際、これがきっかけになるカップルもあるみたいですよ。俺たちもやってみます?」
武田の誘いに夏海は頭を振った。模擬なんて今の私にはシャレにならない。こんなお茶ら気たイベントに参加することで、彼はまだ学生で自分より四歳も年下だという事実を改めて思い知らされる。
 それに、女優などはドラマなどでウエディングドレスを身につけると婚期が遅れるという話も聞く。
「そっか、何か恥ずかしいし、止めた方がいいですね」
武田も、是が非でもやろうとは言わなかった。夏海は自分から断ったのに、武田があっさりと退いてしまったのが何だか寂しい気がして、
「私ってわがままだわ」
と、小さな声でひとりごちた。
「えっ、何か言いました?」
「ううん、何でもない」
しかし、その小さな声を聞き咎めた彼に、彼女は慌ててそう返した。
「今日はお天気が良くて暑いわ。氷でも食べない?」
そして夏海はそう言うと、端に合ったかき氷の屋台に小走りで近づいて行った。

 氷を食べた後、夏海は工学部の『スーパーコンピュータが十年後のあなたの未来を予想します』というコーナーを見つけた。要するに占いの様なものよねと、夏海は思った。
「あ、これ毎年やってるやつですよ。結構当たるらしいです」
武田はそういうと、そのブースに入って行ったので、彼女もそのあとに続いた。
 申込用紙に自分のデータを書き込み、解析結果を待つ。出てきた結果には、基本的なその人の思考の傾向と、一年後、五年後、十年後の予想が書かれてあった。
 その人の思考の傾向は当たっている様に夏海は感じた。占いにありがちな、当たり障りのないことを書き連ねて、その気にさせているのかもしれないが、未来予想に期待つい期待してしまう。
しかし、追って出てきた武田の診断結果を見た夏海は、するのではなかったと後悔した。 
 一年後はまだしも、十年後の診断結果がとても同じ人生を歩んでいるとは思えない内容だったのだ。所詮占いの類だ。そんな事は解かりきっているのだが、もう少し診断結果に共通点が欲しかった。全くと言って合わさらない診断結果に、彼女は少なからず動揺していた。
「どうかしました?」
急に黙り込んでしまった夏海に、武田が顔を覗き込みながら心配そうにそう聞いた。
「ううん、別に……」 
夏海は武田の大学祭に出かけた。
彼に案内されながら学内を周っていた時、「模擬結婚式」なる看板が彼女の目に飛び込んできた。近づくと、受付らしい学生から、
「今日の記念にどうですか。ウエディングドレスも各種サイズをとり揃えてありますよ」
と呼び込みをかけられた。ツーショットで歩いていたからだろう。
「記念ってもねぇ……」
自分が彼と同じ大学生なら、面白がってやってみる気になったかもしれない。実際にそのすぐ横では、いましも模擬結婚式を終えたカップルが、主催者たちのライスシャワーを浴びて照れた様子で笑っていた。
「実際、これがきっかけになるカップルもあるみたいですよ。俺たちもやってみます?」
武田の誘いに夏海は頭を振った。模擬なんて今の私にはシャレにならない。こんなお茶ら気たイベントに参加することで、彼はまだ学生で自分より四歳も年下だという事実を改めて思い知らされる。
 それに、女優などはドラマなどでウエディングドレスを身につけると婚期が遅れるという話も聞く。
「そっか、何か恥ずかしいし、止めた方がいいですね」
武田も、是が非でもやろうとは言わなかった。夏海は自分から断ったのに、武田があっさりと退いてしまったのが何だか寂しい気がして、
「私ってわがままだわ」
と、小さな声でひとりごちた。
「えっ、何か言いました?」
「ううん、何でもない」
しかし、その小さな声を聞き咎めた彼に、彼女は慌ててそう返した。
「今日はお天気が良くて暑いわ。氷でも食べない?」
そして夏海はそう言うと、端に合ったかき氷の屋台に小走りで近づいて行った。

 氷を食べた後、夏海は工学部の『スーパーコンピュータが十年後のあなたの未来を予想します』というコーナーを見つけた。要するに占いの様なものよねと、夏海は思った。
「あ、これ毎年やってるやつですよ。結構当たるらしいです」
武田はそういうと、そのブースに入って行ったので、彼女もそのあとに続いた。
 申込用紙に自分のデータを書き込み、解析結果を待つ。出てきた結果には、基本的なその人の思考の傾向と、一年後、五年後、十年後の予想が書かれてあった。
 その人の思考の傾向は当たっている様に夏海は感じた。占いにありがちな、当たり障りのないことを書き連ねて、その気にさせているのかもしれないが、未来予想に期待つい期待してしまう。
しかし、追って出てきた武田の診断結果を見た夏海は、するのではなかったと後悔した。 
 一年後はまだしも、十年後の診断結果がとても同じ人生を歩んでいるとは思えない内容だったのだ。所詮占いの類だ。そんな事は解かりきっているのだが、もう少し診断結果に共通点が欲しかった。全くと言って合わさらない診断結果に、彼女は少なからず動揺していた。
「どうかしました?」
急に黙り込んでしまった夏海に、武田が顔を覗き込みながら心配そうにそう聞いた。
「ううん、別に……」
「顔色良くないけど、大丈夫です? どこかで休憩した方が良いかもしれないな」
彼女は彼が心配して自分の肩に回してきた腕にその身を預けた。

「顔色良くないけど、大丈夫です? どこかで休憩した方が良いかもしれないな」
彼女は彼が心配して自分の肩に回してきた腕にその身を預けた。

theme : 自作連載小説
genre : 小説・文学

噓-Parallel 12




 武田は決まった任地が浜松であることを理由に、小夜子に別れを告げた。少しずつ会う 回数を減らしていたこともあったかどうかは確かはないが、『泣かれたけど、最後は解かってくれましたから』という報告を夏海は受けた。
 だが、そうなっても夏海の状況が変わることはない。彼女に関係を隠さねばならないのは変わらないのだ。そのためには、任地が遠方だったのは却って良かったのかもしれない。東京都内で鉢合わせすることに怯えることなく、自分が浜松に行って会うことができる。
 今度は小夜子の誘いをかわすために、夏海は偽の恋人をでっちあげた。
知人の紹介で知り合った四歳年上のサラリーマン……夏海たちは紹介されたわけではないが、小夜子なしでは知り合っていないのだし、新年度からは武田も社会人。実のところ、夏海との歳の差を上下入れ替えただけのことだ。
 名前も、もっともらしいものを付けることなく、クマさんとニックネームでぼかした。「クマのぬいぐるみみたいなのよ」
とテンションを上げて話す。以前はそんな演技など出来ないと思っていたのに、それを軽々とこなしている自分がいた。傷心の彼女にはそんな話を聞く耳などなかったのだろう、小夜子は次第に仕事の事以外の事を夏海と話さなくなっていった。

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genre : 小説・文学

遠距離-Parallel 13

遠距離


 三月……武田が任地に旅立って、二人の遠距離恋愛が始まった。

 しかし、蓋を開けてみるとやはりネックだったのは、夏海の両親だった。
龍太郎の時と同じく、夏海の一人暮らしも外泊も許してはくれない。あの距離を泊らずに往復するしかないのだ。回数券購入などなけなしの自衛策を講じるも、速さを優先させた新幹線での移動はそれなりに料金がかかる。とても休みの度に出かけることなどできない。とりあえずその日の内に戻ってくる娘を母は咎めたりしなかった。もしそんなことをしたら、娘は今度こそ家を出てしまうとでも思っているのだろうか。
 確かに面倒臭さはあるものの、夏海はその距離を楽しんでもいた。武田に近づく行きの道中の高揚感はもちろん、寂しさに心を震わせる帰りの道中さえも。
 会えない日々は電話でつないだ。武田は固定電話を持たず、携帯で済ませていた。ほぼ毎日の事だし、ついつい長電話になってしまうので、彼は部屋の近くの公衆電話からかけてくるのがほとんどだった。
「いきなり切れたらゴメン。先に謝っとくよ」
自分も社会人となったのを機に、くだけた言葉遣いになった彼は、そう言って話し始めるのが常だった。
 かける時間は概ね合わせてあるので大抵は夏海が取るのだが、時々母に取られてしまう事がある。そんな時母は、探るような目つきで、
「夏海ちゃん、武田君から」
と、受話器を渡す。その姿に夏海は嫌な寒気すら感じた。
小夜子の彼氏だった事を母に言ったかどうか夏海自身もう記憶にはないのだが、友達として三人で会うという話をした記憶は残っている。その時にたぶん武田の年齢も言っていたはずだ。
毎日電話をかけてくることで、彼らの今の関係は言わずもがな知れているだろう。

それでも今回、何の質問もない母の態度が、夏海は逆に空恐ろしいと感じていた。

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武田の家-Parallel 14

武田の家


7月-夏海は27歳の誕生日を迎えた。武田は一番近い週末に東京に帰ってきた。そして、2人は一緒に誕生日を祝った。
その日のデートの後、武田は夏海を彼の実家に連れて行った。彼の実家は下町にある小さな洋品店だ。最初は夫婦でやっていたが、大きな店と張り合える時代ではなくなり、父親は今はサラリーマンをしている。

玄関で武田の姉に迎えられた。彼より5歳年上の姉は、夏海に向かって開口一番、
「よくこんなのと付き合うようになったわね。」
と言った。
「それ、どーいう意味だよ。」
「私ならこんな面倒臭いし、何より爺むさい音楽聴いてる男なんてやだわ。」
「ねーちゃんに好かれたかないよ。彼女はそんな俺が好みなの。」
彼は口をへの字にまげて姉の言葉にそう返した。
「それはそれは、ご愁傷様。」
そして、彼女は夏海に向かってそう言った。そのやり取りをみて、夏海は吹き出すのをこらえるのに必死だった。まさにその爺むさい音楽が2人の馴れ初めなのだから。お姉さんは私が彼に合わせてそういう音楽を聴いてるのだと思ってるのかしら、まぁ普通はそういうことも多いのだろうけれど…と夏海は思った。
「ま、ゆっくりしていってよ。何もないけど。」
そう言って、武田の姉は夏海にスリッパをすすめた。

リビングで夏海は武田の両親と会った。武田の父はしきりと夏海と話したがり、武田の母に、
「お父さんが話しかけたら迷惑よ。」
とたしなめられていた。そして、帰りがけには手土産まで持たせてくれた。
夏海の方が4歳年上だということは既に話してあると聞いている。それでもすんなりと受け入れてくれている様子なのが、夏海にはとても嬉しかった。
龍太郎とは8年付き合っても、家族に会う機会はついぞなかったなと思った時、夏海は龍太郎が自分を突き放してくれたことを少し感謝したい気持ちが湧いてきたのだった。

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母の思惑-Parallel 15

母の思惑


 一方、夏海の母は、彼女が武田と付き合っていると解かっていても、いや解かっているからこそなのか、事あるごとに見合いを勧めた。母にとっては四歳も年下の社会人になり立ての男など対象外だと言わんばかりに、知り合いのお節介なおばさんたちにどんどんと娘を売り込んでいる様である。
 夏海は何度か盛装をしての写真(つまりは釣書に添えるためのもの)を取る様に強要されたが、彼女はそれを断固として断った。
「じゃぁ、スナップ写真でも良いわ。このごろは自然な感じなのが流行りだって言うから」
それでも母はまだ諦められないらしい。夏海は、ほとほとうんざりしながら一枚のスナップ写真をピックして渡した。
 それは社員旅行の際の写真で、にこやかに笑う彼女の横には、男性社員が二人一緒にフレームに納まっていた。
「私が写真嫌いなの知ってるでしょ。今、笑ってるのなんてこれしかないわよ」
夏海は母からクレームがつかぬうちにそう先制攻撃を加えた。こんな風に同僚と言えど男と写っている様な写真を見て、それでも良いと言うような男などいないだろう。いっそのことツーショットならなお良かったのに……
 母親は明らかに物言いたげだったが、無言でそれを受け取った。
 夏海はあんな写真で見合いに応じる男などいないと思っていた。実際、その写真を渡してからしばらくは、話を持ってくる人などいなかったから、彼女は安心しきっていた。
 しかし、そんな写真などものともせず、会おうと言う物好きが現れたと言うのである。夏海はにべもなく断った。しかし、それに対して
「会うだけでいいから、会ってみてちょうだいよ」
と、話を持ってきた母の昔からの友人は、写真を持ち帰らず、そう懇願して置いて帰った。
 「一体この方のどこがいけないの」
その友人が去った後、母は夏海に言った。
「この人がどうだって訳じゃないわ。解かってるんでしょ。会えるわけがないじゃない」
「この際だから言うわ。夏海ちゃん、武田君は駄目よ」
「何がダメなのよ! 大体、お母さんは龍太郎のときだって反対したわ。どうして私の気持ちを考えてくれないの!」
「あなたが幸せになれそうもない子ばかり選ぶからよ。武田君って、もとは中谷さんと付き合ってた人でしょう? そんな節操のない子が四歳も年上のあなたと結婚するつもりがあると思う?」
母はやはり知っていたのだ。まだ付き合う以前に不用意に夏海が口にしたのか、状況から類推したのかは判らないが、その辛辣な口調に彼女は目眩がするほどだった。
「あの子と付き合ったのが私と会うより先だったんだもの。しょうがないじゃない。それに、いきなり別れたりしてそれが私が原因だと分ったら、私とあの子との関係が崩れるもの。あれは康文の配慮よ」
夏海は少し剝れながらそう答えた。
「だったら尚更そんな優柔不断な男は止めなさい。彼、今東京にはいないんでしょう? そのうちあっちに女を作って、それで終わりだわ」
すると母はすぐさまそう返した。何てデリカシーのない言い方なのだろう……夏海は涙がこぼれおちるのを必死でこらえた。
 この人はそうやっていつも自分の一番不安に思っていることを的確に付いて突いてくるのだ。『お母さんはね、夏海ちゃんが幸せになる、それだけを望んでいるのよ』口ではいつもそう言うが、本当にそう思っているのか疑いたくなる。
もっとどうして娘の目線に立って考える事が出来ないのか。そうね、私はお姉ちゃんみたいに素直じゃない。きっと疎まれているのだ。
 夏海には二歳年上の姉がいる。両親に従順な姉は、短大を卒業して二年でさっさと親の喜びそうな彼女より三歳年上のサラリーマンと結婚した。
確かにおっとりと優しい姉は夏海の自慢でもあったが、夏海はまた、姉の様にはなれないとも思っていた。
「お母さんには、私の気持ちなんて解かってもらわなくて良い!」
夏海はそう言うと、家を飛び出した。
 そして向かったのは自宅近くの電話ボックス。夏海は空で覚えてしまっている武田の電話番号を押した。 
 一刻も早くこの場所から連れ出して! 夏海は心の中で何度も叫んでいた。

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genre : 小説・文学

疑念-Parallel 16

疑念

「もしもし、何かあった?」
武田は何故か切羽詰まった声で電話に出た。
「あ、私……」
「なんだ、夏海さん? 公衆電話なんで、誰だか判らなくて焦ったよ。で、何? 俺も電話しなきゃと思ってたんだけど」
彼は電話の主が夏海だと判ると、武田はホッとしたような様子でそう言った。
「ううん、ちょっと声が聞きたくなっただけ」
いきなり、見合いの話は切り出せなかった。
「そう……じゃぁ悪いんだけど、しばらく電話できそうになくて……そのことを今、電話しようと思ってた。今も長くは電話できないから」
「ゴメン、忙しかったんだ。気にしないで、声が聞きたかっただけなの。カードも一枚しか持ってないし、すぐに切れちゃうわ」
夏海は二枚目のカードを握りしめてそう答えた。
「じゃぁ、また」
「あ……」
しかし、切れると思った途端、彼女の口から声が出てしまった。
「やっぱり、何かあるんじゃない?」
「うん……私、見合いするかもしれない」
そして、彼に問われてやっと見合いの話を舌に乗せる事ができた。
「お母さんか、懲りないね。じゃぁ、しばらくしたらこっちから電話するから。それまで待ってて」
彼は明るくため息をつきながらそう返事して電話を切った。夏海が受話器を置くと、一枚目のカードが少し度数を残して夏海の手に戻った。
 電話を切った後、夏海は電話ボックスの中で身震いしていた。
『そのうちあっちに別の女を作ってそれで終わり』
先程来の母の言葉が彼女の脳裏を駆け巡る。もうすぐ就職して一年経つんだもの。いろいろやらなきゃならない仕事があるんだわ……そう考える心の隙間から、小夜子の顔が浮かんでくる。康文、あの子と別れる時もこんな風に少しずつ引き離していったのかしらと。
いや、私がお母さんに見合いをせっつかれていることは前から彼には言ってあるし、待っててくれと言ってくれた。大丈夫、待っていればいいのよ……
 夏海は勢い込んでかけてきた公衆電話までの道を、帰りはのろのろと戻った。
 そして翌朝、
「お母さん、お母さんの顔が立つって言うんだったら、会うだけならいいわよ。あくまで顔を立てるだけだから断るけど、それで良かったら先方に電話してくれていいわ」
夏海はそう言って、足早に会社に向かった。 

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genre : 小説・文学

髪-Parallel 17



 お見合いに際して、母は夏海にフェミニンなワンピースを買い与えた。そうでもしないとこの娘はデニムにトレーナー姿で見合いに行くとでも思っているのか――さすがに私でも、そこまでのことはしないわよと、彼女は明らかに自分より数段はしゃいでいる母の後ろ姿にそうつぶやいた。
 母の見立ては夏海の普段の服装からは相当甘すぎたが、見合い当日だけは母の人形になると決めた。それで仲をとってくれた人に顔が立つのなら。そして、会ってすぐ断れば良い。そう思った夏海は珍しく母の選んだ服に袖を通した。いつもなら、彼女の見立てた服など絶対に着ないのだが。
 そして当日、夏海は朝一から美容室に行った。横髪を少し結って後ろでこの日のワンピースに合わせたかわいい感じのヘアアクセで留めると、残りの腰少し上まで伸びた髪は少しロール状に流れ落ちる。
「夏海ちゃん、ホント得よねぇ。天然の縦ロール。まるでお姫様みたいよ」
行きつけの美容師がそう言いながらセットをしてくれた。

 それにしても、私が髪を伸ばし始めたのはどうして……ああ、それは龍太郎が私が少し伸ばした時に、
「海は長い髪の方が似合うよ。伸ばせば?」
と言ったからだわ。美容師の賛辞を聞きながら、夏海はそんな事を思い出した。
 セミロングだった夏海はそれから伸ばし始め、今の長さになってからは、前髪とけ先だけを手入れするようにしてそれを保っている。この長さが気に入っている訳でもないのに、別れて久しい今も相変わらず切れずにいた。あの発言も、ロングヘアが似合うと言うより、ただそれが龍太郎の好みだったと言うだけだろうに。
 
 そして、その美容師からメイクも念入りに施されると、夏海は母と共に見合いの会場、あるホテルのラウンジに向かった。

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最悪の事態-Parallel 18

最悪の事態


 見合いに電車もあるまいと、夏海たちはタクシーでホテルに乗り付けた。
そんな慣れないことをしたために、彼女らは軽い渋滞に巻き込まれて、待ち合わせの時間に少し遅れた。
「すいません、遅くなりまして……」
夏海の母がぺこぺこと頭を下げる中、夏海自身は軽く一礼しただけだった。
 相手の男――飯塚雅彦は三十一歳。百八十センチあまりの大柄で、如何にも体育会系の感じのする男だった。学校を卒業した後も男達と草野球に興じ、リトルリーグの監督をしている先輩から請われてそのチームのコーチを買って出ているらしい。
 一応、ここに来るまでに一度写真だけはみた。しかし、平面では詳細はつかめない。実際に会うと、その大柄さ加減を実感した。縦にも横にもデカイ人だな……それが夏海の第一印象だった。
 雅彦は全くと言って夏海の好みではなかった。龍太郎にしても武田にしても、どちらかと言えば男としては線の細い、所謂草食系だ。つまり、そういう優男にしか食指が動かないということなのだろう。
 雅彦は夏海が現れた時、しばらく口を半開きにして固まっていた。遅れて来たのに悪びれず一礼だけだなんて、随分無愛想な女だと思ったに違いない。だが、どうせ断るのだから、どう思われようが知った事じゃないと夏海は思った。
「ああ、ああ……そんなの全然構わないですよ」
それから母が頭を下げる言葉を耳に入れると、彼は突然魔法が解けたかのように、何度も頷きながら母にそう答えた、図体のでかい男が身を屈める様子に、夏海はなおげんなりした。
 だから、緊張感などまるでなかった。夏海は緊張しまくっている雅彦を尻目に、同席した雅彦の母親と意気投合し、女同士のトークに花を咲かせた。
 後から思えば……それが夏海のこの日一番の失敗だった。雅彦はそれで彼女の事を『親も大切にしてくれる』との好印象を持つことになったのだから。
 二人きりにされた後、何を話したのかも覚えていない。と言うか、緊張のあまり雅彦は会話らしい会話をしてこなかったからだ。夏海が会社の四方山話をするのをうんうんと来た時と同じく頷いて聞くだけだった。夏海はそれが、雅彦も自分と同じく気のない見合いに無理やり連れ出されて、話をするのも面倒なのだろうと思っていた。

「あ、はい時枝さん? 今日はどうもありがとうございました。えっ、ホントに? 気に入って下さった? それは……こちらはもちろん。では、よろしくお願いします」
だから……帰った後、雅彦が自分を気に入って是非ともお付き合いをしたいと、仲を取り持ってくれた母の友人に連絡してきたと聞かされた時、夏海は目眩がした。そして、母は彼女に断りもなく、二つ返事でそれを受けてしまったのである。
「勝手に受けないでよ、私最初から断るって言ったでしょ!」
「じゃぁ、夏海ちゃんが自分で飯塚さんに直接断りを入れなさい」
それを聞いて激怒した夏海に、母はそう言った。『私は気に入った』と言わんばかりに。
 これは私の結婚なのだ、お母さんのではない。こうなったら自分で断るだけだわ!
だがその後、次の土曜日に会ってほしいと喜々とした調子で電話してきた雅彦に、いきなりそれを告げる事は出来なかった。
 一旦は自分の意志ではないとしても受けてしまったものなのだ。それを電話なんかで断るのは失礼だ。もう一度会って、そこでちゃんと断ればいい。夏海はそう考えてデートの申し込みを承諾した。

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genre : 小説・文学

Parallel 19

「いやぁ、まさかあなたにOKを頂けるなんて思ってませんでした」
待ち合わせの土曜日、雅彦は挨拶もそこそこに夏海にそう言った。
「あ、あの……それは……」
ウチの母親が私に断りもなく勝手に受けたのであって……夏海はそう言おうとしたのだが、雅彦のあからさまの喜びの表情を見てしまうと、それを飲み込んでしまった。断るなら、傷は浅い方が良いはずなのに――そう思いながら。
 そして、初めて会った時とは打って変わって雅彦は饒舌になっていた。
「夏海さんはどのチームがお好きですか。自分は〇〇のファンなんです」
「すいません、私野球自体知りません」
雅彦にそう聞かれた時、夏海は素っ気なくそう答えた。野球の事は本当に知らなかった。ボールをバットで打ち、一・二・三塁と順に走って元に戻ってくる位の知識しかない。それにしても彼は、自分のことを『自分』と呼ぶのか。如何にも体育会系……脳味噌も筋肉でできているのではないかと彼女は思った。
 そのあと、今度は夏海が雅彦の野球に対しての熱い思いを一方的に聞かされることとなった。内容は半分も解ったろうか。彼女は意味も解からず適当に相槌を打つだけだった。
 そして、ひとしきり話し終えたのを見計らって、夏海はようやく彼女の彼に対する最大の疑問を問いかける事が出来た。
「飯塚さん、失礼ですがどうしてあんな写真の私に会ってみようと思われたんですか」
「えっ、あんな写真って?」
雅彦は写真の事を問われて首を傾げていた。この人、私の写真も見ずに会いに来たんだろうか。それほど気持ちのない出会いで、よくも受けてその上こんなしらじらしい態度が出来るものだわ。彼女は首を傾げる雅彦を睨んだ。しかし、写真の事を思い起こそうとしていた様子の彼はそれに気付かなかったようだ。
「私、一人では写ってなかったでしょ?」
「ああ、そのことですか。あれ、社員旅行の写真ですよね。ものすごく良い笑顔で写ってらしたから、良い職場にお勤めなんだなと思いました」
なるほどそういうとり方もある訳か……そう思った直後、雅彦の口をついて出て来た言葉に夏海は目眩がして倒れそうになった。
「で、一目ぼれです。」
雅彦は頭を掻きながらそう言ったのである。野球三昧の日焼けした肌では赤面しているかよく判らない状態だったが、彼の照れ具合を見ていると、しっかり赤面しているに違いない。
 雅彦が夏海を初めて目の当たりにして口を半開きにしたまま固まった本当の理由は、写真を見て一目で恋に堕ちた女性が実体化した喜びと戸惑いだったのだ。さらに当日、夏海はプロによって一段と磨きをかけられた状態で現れた訳で、彼の恋心はますます加速した。気さくな話しぶり、彼の母に対する対応(これは雅彦では話の間が持たないために、ついつい雅彦の母に話しかけることになったためではあるのだが)を見るにつけそのボルテージは上がっていき、頂点に達した。
 もうこの女性を逃してはいけない。仲を取り持って下さった方から、夏海(正確にいえば夏海の母なのであるが)の方もお付き合いをしたいと言ってくれたと聞いた時、意を決してこれからは積極的に行こうと思い、何度も自宅でシュミレーションをしてこの日を迎えたのだ。そんなことを夏海が知るはずもない。
 どうしよう、このままじゃ飯塚さんに押し切られてしまうわ。初対面とは全く別人になってしまったように積極的にアピールする雅彦に、夏海はそう思いながら何故だかその日、言わねばならない断りのための台詞を何度も呑み込んでしまったのだった。

Parallel 20

その内、雅彦からは直接的なものではないのだが、結婚を匂わせるニュアンスの台詞がちらほらと混ざる様になってきていた。見合い自体が結婚を前提に行われるものなのだから、当然付き合いを続けることイコール結婚に向かうというのは当然の流れだ。
 それにしても、自分はどうして雅彦にはっきりと別れを切り出すことができないのだろう。電話を受ける度、会う度に夏海はそのことに身悶えしながら、結局口に出せないままここまできていた。
 そして、何度目かのデートは映画館。チョイスしたのは最後に恋人が亡くなってしまうと言う悲恋物語。夏海は主人公の女性にすっかり感情移入してしまい、かなり号泣に近い状態で涙を流していた。ふと横を見ると、雅彦はそんな夏海の顔をじっと見ていた。
(この人、映画も見ないで私を見ていた訳?)夏海は恥ずかしくなって彼を睨むと、ぷいっと顔を反対に向けた。
 映画が終わった後、雅彦は喫茶店で、
「良い映画でしたね」
と言った。夏海は自分が泣いていたことを見られた恥ずかしさでいっぱいになり、
「飯塚さんは映画なんかちっとも見てなかったじゃないですか」
と非難した。
「ち、ちゃんと見てましたよ。あの時はたまたま眼が合っただけです」
すると、彼は慌ててつっかえながらそう返した。
 その後、雅彦は咳払いを一つして、
「今度……」
と、話を切り出した。
「今度?」
「今度、ウチのチームの練習試合を見に来てやってくれませんか。自分は普通にしてるつもりなんですがね、どうも『最近コーチはにやけている。何かあるんじゃないか』と言われてですね、とうとうあなたの事をあいつらに白状させられてしまいました。で、どうしてもあなたを連れて来いと言うんですよ」
夏海は年端もいかない小学生にせっつかれて、見合い相手の事をしどろもどろになりながら白状させられている雅彦の姿を想像して、笑いをこらえるのに精一杯だった。
「あいつらに、自分の嫁さんだって紹介していいですか。あ、それはやりすぎですね」
だが、雅彦から続いて出て来た言葉に、夏海は一瞬にして血の気が引き、顔が強張った。
「暫く……暫く考えさせて下さい。」
彼女はやっとのことでそれだけを口から紡ぎ出した。後はその日、彼が何を話したのか、自分がそれにどう受け答えしていたのか、彼女は少しも覚えていない。 
 康文の声が聞きたい……彼女の頭の中にあったのは、ただそれだけだった。

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空耳?-Parallel 21

空耳?



 康文の声が聞きたい――逃げるように家に戻った夏海は、子機を部屋に持ち込むと、早速武田に電話を入れた。
「もしもし」
「……」
呼び出し音が途切れた途端、耳に流れ込んでくる武田の低く透き通ったこえを聞いた夏海は涙がこぼれて、言葉を発することが出来なかった。
「夏海さん……だよね」
それに対して、武田は少し訝るような言い方で彼女に尋ねた。
「ごめんなさい……久しぶりに声を聞いたから……」
「こっちこそ、なかなか電話できなくてゴメン……何か、用?」
「あ、あの……」
見合い相手とその後も会っていて、結婚を仄めかされたなどとは言えない、逡巡していると、受話器の向こうから女性の声が響いた。
『康文! 何してんのよ、早くこっちに来なさいよ』
その途端、武田はそわそわし始め、
「ちょっとまだ忙しいんだ。もう少ししたら、こっちからかけるよ」
と言った。
「忙しいならいいわよ。それから、明日から私も忙しいの。色々あって……帰りも遅くなるの。こっちから電話できなくなるから。それだけ……」
「そう、じゃぁお休み。切るね。」
 電話を切った後、夏海は子機をぎゅっと抱き締めて泣いた。そして、聞えすぎる自身の耳を呪った。……あの女、『康文』と呼び捨てだった。やっぱり、年上……なんだろうか。
 普通電話では電話している本人以外の声は聞こえないものらしい。しかし、夏海の耳は受話器越しの少し離れた者の声まで拾ってしまい、電話口の人間の取り次ぎを経ず、当然聞えるはずのないその者にまで返事をしてしまうことがある。武田はそのことを知っていたろうか。大学時代から一人暮らしだったし、小夜子と二人でいた所に電話をした記憶もない。それに、たとえそうでなくても、彼はその傍にいた女性の言葉に明らかに動揺していた。
『あっちで別の女を作られて、それで終わりだわ』母の言葉が刃となって夏海の心に突き刺さる。母の言っていた事がまさに現実化している? そう思った時、夏海は震えが止まらなくなっていた。
 そのとき、不意に着信音が鳴り響いた。夏海は驚いて抱きしめていた子機を放りだしそうになった。ああ言ってはいても、自分の態度に何かを感じ取ってかけ直してきてくれたのかしら……そう思いながら着信ボタンを押した。
「もしもし、倉本さんのお宅でしょうか」
しかし、かけてきたのは武田ではなく雅彦だった。夏海にがっかりする気持ちとホッとする気持ちが交錯する。
「あ、夏海です」
「夏海さん、今日はすいませんでした。映画館から後、急に元気がなくなったみたいでしたし。実は、泣いてる顔も素敵だと、見入ってしまってました」
雅彦は夏海が泣いているのを見られたことを怒っているのだと思って、謝りの電話を入れたのだ。
「いえ……そんなの、何とも思ってないですよ……」
「ああ、それだったら良かった」
そして、そんな小さなことに心底ホッとした様子の雅彦の口ぶりに、夏海はまた涙があふれてくるのを抑える事ができなかった。
「夏海さん? ホント、何かあったんですか? 自分で良かったら話聞かせてください」
雅彦はそんな夏海の涙に気付いてそう言った。しかし、たった今恋人に裏切られたことを見合い相手の彼に言える訳がないではないか。
「いいえ、何でもないですよ。それより私、いつ行ったらいいですか」
「はい?」
「練習試合の応援」
「えっ? えーっっ! 来て下さるんですか?」
雅彦の叫び声と同時に、ゴトンという鈍い音が夏海の耳に響いた。夏海が練習試合を見に行くと言われて、今度は雅彦が本当に受話器を落としてしまったのだ。
「す、すいません。自分、あんまりびっくりしてしまいまして、電話落としてしまいました」
「謝らなくてもいいですよ。で、いつ行けば良いんですか」
「はいっ! えっと……スケジュールは……」
雅彦は完全に舞い上がった声でぶつぶつ言いながら、日程表が書かれた手帳をバサバサと繰り始めた。
 これが彼に対する自分からの意思表示になると言うことは夏海にもよく解かっていた。
武田のことの反動だというのは間違ないが、その時夏海は、普通に幸せになるののどこが悪いの? という開き直りの様なものも、同時に感じていたのだった。

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genre : 小説・文学

2番目の人-Parallel 22

2番目の人


夏海はその日、練習試合の途中からこっそり参加した。それでも、チームの家族以外は見に来ることのない練習試合では、見慣れない顔の夏海は、大人はもちろん子供たちにもすぐに気付かれてしまった。
「すげーっ、コーチホントだったんだぁ」
「コーチ、なかなかやるじゃん。どこでそんなキレイな人見つけてきたのさ」
子供たちが試合そっちのけで口々に雅彦を突っつく。
「お前ら、試合に集中しろ! こっちが約束守ったんだからな、絶対勝てよ」
「はーい、コーチが良いところを見せられるように頑張りまーす」
子供たちが口をそろえてそう言うのを聞いて照れてあたふたしている雅彦を見て、夏海は吹き出した。

「お前ら、これじゃ逆だろ」
そして、試合が終わった後、約束通り勝利した彼らに、雅彦は結婚の前祝いだと言われて、アイスをを奢らされていた。
「ねぇねぇお姉さん、コーチのどこが良かったの」
夏海の肘を突きながら、そんなストレートな質問を浴びせかける子供までいた。
しかし、どこが良かった……と考えた時、夏海の心は寒くなった。どこが良くて私は今日、ここに来たのだろう。
 あの日以来、雅彦は確かに夏海の中でぐっと近づいた存在になった。でもそれは、武田に裏切られた悲しみを埋めるためでしかなかった。このまま流れに乗っていれば、そのまま結婚まで到達する電車に乗った。それだけなのかもしれない。
「うーん、優しいとこかな」
だから、夏海は無難にそう答えた。
「コーチ、彼女に優しいんだってさ!」
すると、素っ頓狂な声でその子が叫んだ。周りの子供たちからもわっと歓声が上がる。
「コラ、シゲ! 何、聞いとんだ!」
雅彦は日焼けしていても判るほど真っ赤になって、シゲと呼んだ少年の頭を小突いた。
「すいません、夏海さん……」
「夏海さんだって!」
またそこで歓声が上がる。
「お前らなぁ……」
嬉しさと恥ずかしさを綯い交ぜにした様な表情で、雅彦は夏海を見た。

『女はね、一番愛している人より、二番目に愛してる人と結婚する方が絶対に幸せになれるのよ』
誰かがそんな事を言っていた事を夏海は思い出した。二番目に愛しているのが雅彦かどうかは判らなかったが、愛するより愛される方が幸せになれるということなのかもしれないと、夏海はその時、そう思った。

「今日は、本当にありがとうございました。夜にまた、電話します」
雅彦は夏海を自宅まで送り届けると、手を握りそう言って帰って行った。
 そして、その夜雅彦は、
「来週会う時にはその……帰りに夏海さんのお父さんに御挨拶して良いですか。」
と言った。控え目な言い方ではあるが、それは紛れもなく彼女に対するプロポーズだった。夏海は戸惑いながらもそれを受けた。
 プロポーズを受けた夏海は、夜遅く武田に手紙を書いた。電話で直接別れを告げる勇気などなかった。淡々と見合い相手の男と結婚するという事実だけを書き、武田に借りていたCDを同封してポストに投函した。 

theme : 自作連載小説
genre : 小説・文学

不信の代償-Parallel 23

不信の代償

 そして、夏海が投函した翌々日、武田から電話があった。
「夏海さん、結婚おめでとう」
開口一番、武田はそう言った。それは夏海が彼の口からは一番聞きたくない言葉だった。
「あなたは結婚できれば誰でも良かったんですね」
続いて彼から吐き出された言葉が夏海の胸を切り裂く。言葉尻が丁寧なのに気付いて、夏海の胸は余計に痛んだ。二人の前に大きな大きな壁が立ちふさがっているようだった。
「違う……違う……そんなんじゃないわ、それだったらあなただって……」
「あなただって? 俺があんたに何をしたって言うんだ!」
だが、そんな夏海の言葉に、武田はいきなり激昂した。
「だって、私がこの前電話した時、あなた女の人と一緒にいたじゃない! 彼女あなたの事、呼び捨てにしてたわ」
「!」
武田の息を呑む音が聞えた気がした。
「……まさか、隣の部屋のあの声が聞えたって言うのか?」
彼は信じられないという感じで聞き返した。それにしても隣の部屋って何? 彼の住んでるのはフラットな一DKなのに……
「そうよ、私の耳……電話の相手方の少し離れた声も全部拾うのよ、知らなかった?」
「確かに、デカイ声で叫んでたけどさ、マジかよそれ……」
武田はそれを聞いて一瞬言葉を失った。そしてふてくされたような声でぼそっと、
「アレ、ねーちゃんだよ」
と言った。
「ねーちゃん?」
「実は親父が倒れてさ、あの日は親父の病院に行った後、今後の相談をするために実家にいたんだ」
ねーちゃんと実家……携帯に電話してるし、こっちに帰ってくることも聞いてなかったから私、彼が当然浜松のあのアパートにいるもんだとばかり思ってた。
 そう言えば、その前にかけた時も着信元が公衆電話だったことにひどくびくついてたわ。あれって、私の電話を病院からの電話だと思ったからなんだ。いつかかってくるか分らないからって、長電話もできなくて……夏海の中で、最近の武田の不可解な行動が全てつながっていった。
「ごめんなさい……私、誤解してた」
「俺も何も言ってなかったのは謝るけどさ、何でそもそも見合なんかしたんだよ。いつも通り逃げれば良かったろ!」
夏海の勘違いが分ったからなのか、武田はいつになく上から目線だった。
「そうよね……ごめんなさい」
そんな彼に返す夏海の言葉は、もう謝罪の言葉しかなかった。そうよ、康文はちゃんと待っててって言ってたのに……
「それでも俺さ、今回は何か嫌な予感がしたんだよ。それで、そっちに電話入れたんだ。そしたら全然つながんなくてさ、やっとつながったと思ったら、お母さんだった。そいで、言われたんだ。『夏海ちゃんはお見合いをした方と良いお付き合いをしてます。だから、もう夏海ちゃんとは連絡を取らないでくれますか』ってな。思い切って本当の事を言おうと思ってたのが、それで一気に力が抜けたんだよ。なんか電話する気が失せた」
武田は苦々しげにそう吐き捨てた。
「お母さんがそんな事を言ったの?」
よりによって、私がいないときにお母さんが電話をとっていたなんて。
「なぁ、百歩譲って見合いするのは親の手前だとしても、それから付き合ってるってどういうことだよ。あのお母さんがどうあれ、最初に会ったときに本人に直接言えば済んだことだろ」
「そ、それは……」
雅彦に直接すぐに断りを入れなかった件を突っ込まれて、夏海は口籠った。見合いの後、母が勝手に話を受けてしまったから、二度目に会った時には打って変わって飯塚さんが積極的になっていたから言い出しにくくなってしまったとか……いや、違う。いくらでも断る暇などあったはずだ。
「俺が浮気でもしてると思ってたってか」
「……」
「黙ってるってことは、図星だってことだな。俺は親父の事で頭が一杯で、そんな暇なんてなかったよ」
武田は声こそ荒げてはいなかったが、その口調は怒りに満ちていた。
「じゃぁ、康文がもっと早くお父様の事をちゃんと話してくれれば良かったじゃない。そしたらそんな誤解もなかったんじゃない?」
そう、最初から武田の父の病を知っていたら……私はあんな話はお母さんの挑発を受けようが受けなかった。
「そんなことしたら東京にいない俺に代わって、夏海さんが親父の面倒を看ると言いだすだろ」
「当たり前じゃない。あなたのお父様だもの」
あなたのためだけじゃなく、お母さんに窘められても嬉しそうに私に話しかけてきて緊張している私の気持ちを少しでも軽くしようとしてくれたお父さんに、その恩返しをしようと思っても、罰なんか当たらないはず、夏海はそう思った。
「親父の事はこれからどれくらいかかるかわからない。精神的にも経済的にも結婚なんて余裕は今持てないんだ。あの夏海さんのお母さんが、結婚もできない男の親の手伝いに夏海さんを行かせる訳ないだろ。だから、言えなかった」
それに対して武田はそう言った。
 それにしても……ああ、また母だ。何故あの人はこうも私に立ちはだかるのだろう。夏海はぐっと唇を噛みしめるしかなかった。

Parallel 24

「親父さ、今週になってやっと症状も落ち着いてきて、危ないとこ抜けたんだよ。だから……もうちょっと待っててくれたら良かったのに……」
武田は苦々しげにそう言った後、
「俺、引き留めたりしないから。それが俺の男としての最後のプライドだと思ってる。
俺さ、つくづく夏海さんに信用されてなかっただけなんだろ。まぁな、小夜ちゃんの性格がとか言って、すぐにすっぱり切らなかった俺が何も言えないんだけどさ。でも、これがサティの人だったら夏海さん、最初から見合いなんてにべもなく断ってただろ、きっと」
と言った。それを聞いて、そうかもしれないと夏海は思った。龍太郎とまだ付き合っていたあの頃なら、彼が少々浮気をしようが、あてつけに見合いをしようなどと言う発想は出なかったはずだ。
「俺たちって縁がなかった、それだけさ」
呟くようにそう言って、武田は大きくため息をついた。そしておもむろに武田は、
「最後に一つだけ教えてやるよ。俺にとって夏海さんは最初の女だったんだよ」
と言った。
「最初の…女?」
夏海は驚いて聞き返した。
「うそ、あなた小夜ちんと!」
「付き合ってたよ。でも、あいつとは結局キス止まり。お飯事でしかなかった。
それでさ、大人の女性と付き合うにはそんなんじゃ駄目だと思って、こっそりHビデオ見たり、遊んでる奴の受け売りで、女に慣れたフリしてただけさ。でないとサティの人は超えられないって妙に肩肘張っちゃってさ。今から考えると、それがガキだなって分るのに。
本当に夏海さんの中の“彼”にずっと怯え続けてた。こんなことなら、正直に何も知らないって言えば良かった。そしたらお互い不安に駆られることもなかっただろうからさ」
 そんな武田の爆弾発言を聞きながら、私は一体康文の何を見てきたのだろうと夏海は思った。私は彼が龍太郎に対して並々ならぬライバル心を抱いていることにも気づいていなかった。悪いのは結局私なのか……
「とにかくお幸せに。夏海さんなら、どんな方でも上手くやっていけますよ」
何も言えなくなってしまった夏海に、武田はそう言うと電話を切った。

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genre : 小説・文学

勘違い-Parallel 25

勘違い


 呆然と自室の床に座り込んでしまっている夏海の隣で子機が鳴り響く。しかし、夏海は取る気になれなかった。そう、この電話はたぶん……
しばらくして、階下から母の声がした。
「夏海ちゃん、電話部屋に持って行ってるんでしょう? 出てくれればいいのに。飯塚さんからお電話よ」
母のそんな呑気な取次が恨めしかった。母は何時、私をかっ飛ばして武田に別れを促したのだろう。
 あの人が余計なことを言わなければ……私にも『あっちに女を作られてそれで終わり』なんて不信を植えつけるようなことを吹き込まなければ……私は康文を……待てた?

 ……止めよう。そんな母の思惑に縦しんばからめとられたのだとしても、結局飯塚さんを選べばごく普通の幸せが待っていると思って最終的に決断を下したのは、この私自身ではないか。
私の中に小夜ちんから奪い取った、元は小夜ちんの……という気持ちがどこかになければ、いくら強引な押しに弱いとは言っても、私は自分のその口で飯塚さんに断りの言葉を吐けたはずだ。

「はい……夏海です。」
「今、よろしいですか。」
「……」
しかし、雅彦の張りのあるひときわ大きい明るい声を聞いた途端、夏海は涙が流れて止まらなくなってしまい、彼に返事をすることができなかった。
「どうしたんですか? 何かあったんですか?」
雅彦は電話口の夏海が泣いていることに気づいて慌てているようだった。
「……ごめんなさい……私……このお話やっぱり受けられない……お断りします」
夏海はしゃくりあげながらやっとそれだけを告げた。こんな気持ちではとても飯塚さんとは結婚なんてできない。
「何故ですか!」
「私……好きな人がいるんです。その人を忘れようと思って飯塚さんとのお話進めていただいたんですけど、やっぱり忘れられそうにないです。そんなの、悪いでしょ」
それを聞いた雅彦の方は、やっぱり……と思っていた。でなければ、こんなに素敵な人が一人でいて見合いなどするはずはないと。
 その時雅彦が想像していた夏海の状況は、釣書にも社員旅行の写真を添付してあったし、初めて会った日も仕事の話だったから、相手は職場の上司で既に家庭を持っているといった的外れなものではあったのだが。

「夏海さん、今は駄目でも少しずつ自分の事、好きになってくれませんか」
しばらくの沈黙の後、雅彦はそう口にした。
「えっ?」
「自分の事、断ってもその方のところには行けないんでしょ?」
「……はい……」
そう、私がこの手でその道を絶った。でもなぜそれを飯塚さんが知ってるの?
「じゃぁ、自分に甘えて傷治してください。あなたは甘えられるより、甘える方が向いてると自分は、思います。でも、自分にはそんな頼り甲斐はないかな。」
「飯塚さん……」
「もう、ウチの家族にはあなたを手に入れたと言っちゃいましたよ。今更断るなんて言わないでください。それに、自分はあなたを受け止めきれないような男になんて、あなたを渡したくはないですからね。結婚しましょう、良いですね。」
この人はどこまで知っているのだろうか。それでも私と一緒に居ようと言ってくれる……
「ええ、こんな私で良ければ」
 雅彦は実のところ何も知らなかったし、全然見当違いの憶測をしていたのだが。夏海もまた、雅彦は自分の過去を知った上で、それでも自分を乞ってくれているのだと勘違いしていた。
 男と女の結びつきなど、案外そんな勘違いのなせるわざなのかもしれない。
 
 翌週、雅彦は倉本家を訪れ、夏海の両親に正式に結婚の承諾を求めた。
すると、あれだけ反対した母は、夏海の父と雅彦が男同士酒を酌み交わして盛り上がる中、夏海を台所に呼んで、
「武田君の事はもういいの?」
と聞く。
「もういいのよ。康文とは終わったから。」
言いたいことはいっぱいあった。しかし、雅彦がすぐ隣の部屋にいるところで声を荒げたりはできなかったし、縦しんばそうしたところで夏海は却って自分が惨めになってしまうだけのような気がした。
「そう……お母さんはあなたが幸せになってくれればそれで良いのよ」
そう言う母の顔は、どこか夏海への謝罪を感じさせた。
謝ってもらったところで何も変わらないわ。夏海は心の中で、母にそう呟いた。

 雅彦は結婚と同時に夏海に家庭に入ってほしいと言った。
実のところ、雅彦は夏海の意中の相手は彼女の上司(あるいは同僚)だと思っていたから、それから引き離したいと考えただけだった。
「今の仕事好きなんだけどな」
と渋る夏海に、
「雅彦君、何にしても最初が肝心だぞ。尻に敷かれないためには、言いたいことは言うべきだ」
少し酔いが回り始めた夏海の父が、そんな妙な援護射撃を上機嫌で雅彦に送った。

theme : 自作連載小説
genre : 小説・文学

嘘;から出た真実-Parallel 26

嘘から出た真実

 それから双方の話し合いがあり、具体的な結婚式の日取りも決まって、夏海は会社に辞表を提出した。同僚のおめでとうの嵐の中、小夜子だけが妙に醒めた目をしていた。
「それでどんな人なのよ、教えなさいよ」
社内で母と呼ばれている古参の女性社員、深見がそう言って夏海を突いた。
「えっ、普通の会社員ですよ」
夏海は赤くなりながらそう答えた。
「歳は?」
夏海がぺらぺらと話さないと判ると、深見は細切れに質問してきた。
「三十一です。あ、でももうすぐ三十二になります」
そう答えた所で小夜子の眉が少し揺れた。
「で、君は何さんになるのかな。旧姓倉本夏海さん」
「い、飯塚です」
その時、小夜子の目が大きく見開かれた。
 皆が夏海から離れた後、小夜子は自分から彼女に近づいてきた。
「びっくりしました。私はてっきりやっちゃんと結婚するんだと思ってました」
と彼女は夏海に言った。やっちゃんとは小夜子が武田を呼ぶ呼び方だ。
「どうして? 私最近、連絡もとってなかったわよ。」
そう返した夏海の返事は震えていたかもしれない。
「でも、私と別れたあとは……付き合っていたんでしょ? ナツ先輩。そうですよね。元々私がやっちゃんとナツ先輩を引き合わせたんだし、私が困らせた所でやっちゃんの心は私にはないって気付いてたから。でも、ナツ先輩の本命はやっぱりクマさんだったんですね。おめでとうございます」
 小夜子はいつから2人の関係に気付いていたのだろう。
『女って怖いんだから』夏海は大学祭の誘いの時の自分の言ったことを心の中で再生して、身震いした。
 夏海が返答に困っていると、小夜子は笑みを浮かべて、
「そんな顔しないでくださいよ。私、やっちゃんと別れて落ち込んでるときに高校時代の友達に今の彼を紹介されて……ついこの前彼ね、私の両親に挨拶に来たんです。まだ、具体的なことは決まってないんですけど……」
と言ったのだった。
 心配などしなくて良かったのかもしれない。ただ、縦しんば小夜子に自分たちの関係を早々と打ち明けていたとしても、今の結果に何の変わりもなかったのかもしれないが……
 それにしても、小夜子のためについた嘘が雅彦になって現れたのではないかと思うほど、あの頃取り繕った嘘に雅彦のキャラは符合していて、夏海は小夜子と離れた後、思わず苦笑いしてしまったほどだった。

theme : 自作連載小説
genre : 小説・文学

不安-Parallel 27

不安

「ねぇ、本当にここで良いんですか?」
雅彦が新居に選んだのは、東京都内ではなく、千葉県にあるマンションだった。彼らはこの日、新居に運び入れる家具を決めるため、フロアの細かいサイズを測りに来ていた。
「ここじゃ、試合の時何時に起きないといけないんですか?」
夏海はそう言って心配そうに雅彦を見た。
「あれ? 自分、言いませんでしたか? 結婚を機にチームの指導を降りるの」
「辞めちゃうんですか……何だか寂しいな」
雅彦が辞めると聞いて、夏海がそう返すと雅彦は笑いながらこう言った。
「監督がね『お前今野球どころじゃないだろ。大体な、女連れで指導されても困るんだよ』
って。なんて言うか、実はお払い箱なんです。そのくせ、『秋季大会が終わるまでは頼むぞ』なんて勝手なこと言うんですから」
 監督は雅彦の大学時代の野球部の先輩で、雅彦を弟のように可愛がっていた。たぶん、それは雅彦を幸せに導こうという方便なのだろうし、雅彦自身もそれに気づいているのだろう。
「でも、夏海さんが残念がってくれるのは何だか嬉しいですね」
あれから夏海は何度か練習に試合にと足を向けるようになっていて、すこしずつ野球のルールも解かり始めていた。それに、ちょっぴり生意気な小学生たちとどこか同次元な雅彦を見るのも楽しかった。
「これからはあなただけを見ていられます」
雅彦はそう言って夏海を抱き締めると、彼の唇を彼女のそれに押しあてた。夏海と雅彦とのそれが初めての口づけだった。
 これから夫婦になろうとしているのだ。彼は夏海の父親になろうというのではないのだから。
当然と言えば当然のはずなのに、夏海は突然の口づけに非常に狼狽えていた。そしてそう遠くない将来には身体も結ばれる。そうしたことも頭では解かっているのに、なんとなく実感として湧かない。

『少しずつ好きになってもらえますか』
愛してくれる人に応える愛もある。そう思って受けたこの結婚だったけれど……一抹の不安を感じながら、夏海は次第に深くなっていく口づけに応じた。

theme : 自作連載小説
genre : 小説・文学

たすくの頭の中をお見せしたい!

え~っと、いきなりですが、独身編がここで終了と言う訳で、ちょっとブレイクタイムです。

と言う事は…これ、まだまだ続くんですよ、しつこくね(ため息)。前半部分だけで今までで一番長い「切り取られた青空-いと-」超えちゃってますから。

ネット小説って一気に出される方はあまりいらっしゃらないでしょうから、1話ずつ細切れに更新されて行く訳で…もう校了されておられるものはともかく、連載中のものに関しては更新を待たなければいけない。これもイライラしながら楽しい。

そして、それは作者も同じかなと。いや、フラストレーション的にはもっとかもしれません。

私にはもうラストシーンがはっきりと映像として見えている訳で、そのための伏線も1話から着々と準備しているので、早くネタをばらしたいんですよ。ウズウズしてる。

前半の自分の中での最大の山場、あの年下男の暴露話を書き上げた時には、胃につっかえたものが消えたような…かなりの爽快感を味わいました。これがあるから物書きは止められないんですよね~

もうホント、一気にたすくの頭の中全部お見せしたい衝動に駆られる毎日を今送ってます。ただ、今回は焦らずじっくり行こうとは思ってますので、最終細切れながら何話まで数を重ねるか…それが楽しみのような、怖いような。

良かったら、この後もお付き合いくださいませ。
                                                神山 備

結婚-Parallel 28

結婚



 そして、雅彦と夏海はこの日、結婚式を迎えた。

 それにしても結婚するということは何と煩雑なことなのだろうと夏海は思った。
「嬉しい事だから良いじゃん」
と、龍太郎とのアリバイ工作に多大な協力をしてくれた親友皆川悠(みながわはるか)などは言うが、結婚式の事、新居の事、いろいろな手続き上の事など、次々と用事をこなさなければならない。
「嬉しくたって人間ストレスは溜まるし、疲れるの! 悠はまだ経験してないから分んないのよ」
夏海は悠のその言い草に、そう返した。だが、嬉しいのだろうか……そう返事した時、夏海はそんな風に思ってしまった。本当に愛する人との結婚なら、もしかしたらどんなに疲れていてもそんなことは思わないのではないのかと。
 それでも、雅彦の少年野球の指導最終日、夏海もグラウンドに招待され、子どもたちからお祝いの歌をもらった時には、胸にぐっとくるものがあった。雅彦はその横で子どものように泣いていた。

 そして当日……金屏風にお人形のように雅彦と二人並べられた時、夏海は実はあの日から自分はお人形のままなのかもしれないと思った。
 見合いのあの日――今日だけは母のお人形でいよう――そう思って臨んだ。その時、どこかに心を落っことしてきたのかもしれないと……

 

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genre : 小説・文学

Parallel 29

 結婚式がはねた後、夏海たちはそのまま結婚式を挙げたホテルに宿泊した。

「今日はなんて長い一日だったんだ」
雅彦は少しふらつく足を夏海に支えられながら、どっかとベッドに腰を下ろした。それにしてもあいつら、俺の楽しみをのっけからうばいやがって……ま、結婚式なんて大体そんなもんなんだろうけど。

 二次会で、雅彦の野球仲間などが二人を解放してくれて、部屋にたどり着いたのが午前二時。飛行機の搭乗時間を考えると、午前六時半にはここを出なければならない。そんな時間じゃ、仮眠が限度だ。
 雅彦がそんなことを考えている間に、夏海が先にシャワーを浴びてバスルームから出てきた。
「夏海、疲れた?」
「ええ、少し……」
「先に寝てて良いよ。そんなに寝る時間もないだろうけど、俺もシャワーだけはしとくから」
「ありがとう。でも、大丈夫? 今日はそのままでも良いんじゃない? かなり飲まされたんでしょ?」
風呂に入ると言った雅彦を夏海は心配そうに見た。
「大丈夫、野球で鍛えてあるから。体力には自信があるよ」
雅彦はそう言って、バスルームに入って行った。

 そして、熱いシャワーを浴びながら、雅彦はフライングしておいて良かったなと思った。でなければどんなに時間がなくても抑え切れなかっただろう。
 新婚旅行から帰った後、片付けることから始めないでもいいように新居を整えに行った際、既にコトは済ませてあった。
その時、
「もう、こんなクソ丁寧なしゃべり方、止めるから。実はさ、このしゃべり方、しゃべるたびに緊張するんだよ」
と言って、丁寧な口調を止める宣言をした。しかし、こんな宣言をしなきゃならないこと自体、まだ彼女に緊張している証拠なのだろうが……そう考えて雅彦は苦笑した。
 とにかく、明日からは毎朝隣に彼女がいてくれる。そう思うと、顔が緩んでいくのを抑えられない。
 バスルームから出ると、夏海は余程疲れていたのか、既に軽い寝息を立てていた。雅彦はその隣にそっと滑り込んだ。そして、その白いうなじを眺めながら、
「たぶん一睡もできないな。まぁ、飛行機の時間が長いから、そこででも寝るか。にしても、まるで拷問だな、こりゃ……」
と小声で言い、彼女のうなじに口づけた。夏海はくすぐったいのか、かるく払うような仕草をしたものの、目覚めない。
「今日はご苦労様。これからもよろしく」
雅彦は眠ったままの夏海にそう声をかけた。 

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